出エジプト25:20
ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で「宥めの蓋」をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が「宥めの蓋」の方を向くようにする。
宥めの蓋のケルビムの間に…
さて、想像してみてください。
契約の箱の上には「宥めの蓋」が置かれています。
「贖罪蓋(しょくざいがい)」と呼ばれます。
それは、契約の箱の「蓋」のことです。「箱」と「蓋」は、「一つ」に見えますが「別々のもの」です。しかし、その話は今回のメッセージとは関係ありません。機会があれば、いつかまた学びましょう。
「贖罪蓋」には「ケルビム」が二体(二人?)います。
両方の翼で「蓋」をおおっています。ケルビムは「向かい合って」翼を広げ合っています。
その「真ん中」つまり、両方のケルビムの翼の間に「主が臨在」されるのです。
主は「交わり」の中に「ご自身」を啓示されるのです。
ケルビムは「お互いに向き合って」いますが、それは「主の臨在」を間に「はさんで」のことです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「互いに愛し合い」ましょう。
教会に「不和」は似合いません。
「分裂」「争い」も必要ありません。
私は、聖徒はみな「愛し合う」ことを望んでいると信じています。兄姉を「憎み続けたい」と願う聖徒はいないでしょう。
けれど、多かれ少なかれ「不和」や「争い」が教会に存在するのも事実なのです。
その原因は、たいていの場合「向き合い方」の間違いなのです。
あなたの翼を広げて、その兄姉と一緒に「贖罪蓋」をおおいなさい。
そうすれば、あなたの目は「主の臨在」を見つめることになります。
「主の臨在」を真ん中にして、兄姉と手をつなぐのです。
お互いに「主の臨在」を見つめて、その上で「手をつなぐ」のです。
そうすれば、私たちの互いの間に「愛」が宿ります。神は「愛」なのですから。
「愛そう」「愛さねば」と思うあまり、私たちは「その相手」を見つめすぎてしまうのです。「良かれ」と思って見つめるのですが、それが、かえって「逆効果」なのです。
私たちは、みな、互いに「主の方を向く」のです。「贖い」を見つめるのです。
「贖罪の蓋」には「血」が注ぎかけられます。私たちは互いに「主イエスの血」を見つめるのです。
そうして、主を見つめながら「手をつなぎ」ましょう。
まず神の愛を知り「信じること」です。
私たちは、神の愛を「真ん中に」して、そして「互いに愛し合い」ましょう。
主の愛を感謝します
私は「主の臨在」を見つめます
主の愛によって歩みます

