ヨハネ2:7
イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
それは意味の分からない命令でした
イエス様が「水がめを水でいっぱいにしなさい」と言われたとき、給仕の者たちは耳を疑っただろうと思います。
その場に居合わせた人の中で、イエス様の意図を汲み取れた者はいなかっただろうと思います。
披露宴は、華やかに行われていました。しかし、そこには「危機」が迫っていました。
「喜びの象徴」である「ぶどう酒」が底をついたのです。このままでは、披露宴は「悲惨な結果」を迎えてしまうでしょう。
しかし、そこにイエス様がおられました。
イエス様は「ぶどう酒」を空中から取り出すような「劇的なパフォーマンス」を行われたわけではありません。
それは「隠れたところで」行われた奇跡でした。給仕の者と、恐らく弟子たちだけが知っていたのでしょう。
イエス様は、何の関係もないような「水がめ」に目を留められました。そして、給仕の者は「縁まで水をいっぱい」にしました。ただそれだけです。
「水がめから汲み出された水」は「上等のぶどう酒」に変えられていました。
これには「水汲しもべ」たちも驚いたことでしょう。
終わりの時代のリバイバルも、ちょうどこのようなことではないかと私は思います。
「隠れたところ」で「水をいっぱい」にする「水汲むしもべ」が、リバイバルのために必要なのです。
「水」とは「みことば」の象徴です。
そして「空のみずがめ」は「私」を表します。
私たちは、心を「みことば」で「いっぱい」にしましょう。
それは一見、リバイバルには何の関係もないように思えるかもしれません。
実際、私もそう感じることがあるのです。「みことば」を学び続けることに何の意味があるのだろうと思うことがあるのです。
それよりも、もっと「建設的なこと」「実際に役に立つこと」をすべきではないのかと思うのです。なんとなく、自分を「怠け者」で「役に立たない者」だと感じてしまうのです。
しかし、イエス様は言われます。
「水がめを水でいっぱいにしなさい」
給仕の者は、その意味を理解したわけではないでしょう。ただ「従った」のです。
「みことば」を心に満たすことに飽きたり、やめたりしてはなりません。これは、自分自身に言い聞かせているのです。
ただ「神学的な学び」「知的好奇心を満たす学び」ではなく「心にみことばを満たす」のです。
「縁までいっぱい」に満たしましょう。
主は、この終わりの時代に「水をいっぱい」に満たした聖徒を求めておられます。
あなたの「心」が御言葉で満ち満ちるように望んでおられます。
そして、人々の喜びが尽きるその時、あなたのうちから「みことばを汲み出す」ように命じられるでしょう。
コツコツと「いっぱい」にしてきた「その水」は、あなたからくみ上げられたとき「上等のぶどう酒」に変えられるでしょう。
あなたが「隠れたところ」で、コツコツと「いっぱい」にしてきた「みことば」は、決して無駄にはなりません。
今は理解できなくても、私たちは「みことば」を汲み続けましょう。「縁までいっぱい」にしましょう。
あなたは必ず「人に喜びを与える器」とされるでしょう。
私は「水汲むしもべ」になります
私のうちを「みことば」で満たしてください
主のみことばを感謝します

