ピリピ3:12
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえるようにと追及しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
追いかけるのはやめなさい
私が「主を追い求めるのをやめなさい」と叫んだなら、あなたは、私が「おかしくなった」と思って心配するでしょうか。
でも、私は声を大にして言いたいのです。
「主を追い求めるのはやめなさい」
なぜなら、主は「遠くにおられる神」ではないからです。
パウロが言っていることを聞いてください。
イエス様は、すでにパウロを「捕らえて」くださっています。
そうです。主はすでに「ここにおられる」のです。
このことに関して、面白い例え話があります。
それは、友達とお店で待ち合わせをするようなことです。あなたは5分ほど遅刻して店に入りました。そうすると、まず、あなたはどうしますか。恐らく、あなたは店の中を見渡すでしょう。友達は、もう到着しているはずですから、どこにいるのだろうと捜しますね。あなたの友達は、すでに席に着いていて、あなたが来るのを待っていました。そして、あなたと目が合うと、手を振って、自分の存在を知らせてくれます。つまりは、そういうことです。
グラハム・クック師 Brilliantより 意訳
私たちは「主を求めて」どこかに行く必要はありません。「会える場所」はもう決まっているのです。
「主よ、どこにいるのですか」と叫ぶ必要もありません。確かに、一瞬、見失ってしまうことはあるでしょう。けれど、主が、勝手に待ち合わせの場所を変えてしまうことはありません。それは「あり得ない」のです。
旧約時代の人々より、新約時代の私たちは、比べものにならないほど恵まれています。
旧約時代の人々は、主を求めて神殿に行きました。
しかし、今、私たちは「主を求めて」どこにも行く必要がありません。「あなたはどこにいるのですか」と嘆いて歩き回る必要はありません。
主は「ここに」おられます。私が「神の神殿」だからです。
主は、あなたのうちにおられます。
ですから、主を追い求める必要はないのです。
うちにおられる方を「追及」しなさい。
それは「得る」ことができます。
主は、あなたを見つめて「ここにいるよ」と言ってくださいます。
なぜなら、イエス様がすでに私を「捕らえて」くださっているからです。
私たちは「ここにおられる主」を見つめましょう。
あなたのうちに、あなたとともに、どんなときでも一緒におられる方を信じなさい。
あなたが「感じられない」ときにも、確かに「主はそこにおられる」のです。
主が「捕らえて」くださっている、その御手を「感じる」のではなく「信じる」のです。
「キリスト・イエスが私を捕らえてくださった」と告白しながら歩みましょう。
主よ、私はあなたに捕らえられています
主は、私のうちにおられます
主は、常に「ここに」おられます

