No.452 子よ、おまえはいつも私と一緒にいると言われます

安らぐ

ルカ15:31
父は彼に言った。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。

放蕩息子の兄には不満がありました

放蕩息子のたとえ話は有名ですね。

生前贈与を受けた弟息子は、何もかも使い果たしてボロボロになって実家に戻ります。

「雇い人の一人にしてください」と言う弟息子を、父親は抱きしめ、上等の服を着せ、指輪を与え、子牛を屠って盛大に祝います。これは「恵み」です。

弟息子は、父親のはかりしれない恵みを受けました。

しかし、それを知った兄息子は、怒りにかられて言うのです。

ルカ15:28~29
すると兄は怒って、家にも入ろうとしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。しかし、兄は父に答えた。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹くださったこともありません。

兄息子は、立派な人でした。真面目にコツコツ働く人でした。父親にもよく仕え、おそらく我がままなんて言ったこともなかったのでしょう。

弟息子が「お父さん、財産を先にください」とねだっているのを、いまいましいと思いつつ、心のどこかでうらやましいと思っていたのかもしれません。

兄息子は「恵み」を見失ってしまった人の型だと言えます。

あなたは、真面目に教会に通っているかもしれません。聖書も読んでいます。奉仕もしています。

けれど、なぜか心に喜びがありません。

自分より不真面目な聖徒が、自分より恵まれているように見えます。

そして、なんとなく、父なる神との距離を感じてしまうのです。

父親が兄息子に言ったことばを聞いてください。

ルカ15:31
父は彼に言った。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。

父親と「いつも一緒にいる」のは誰でしょう。

それは、実家を出て遊び歩いていた弟息子ではありません。弟息子は「戻って来た」ので、これからは父親とずっと一緒にいるでしょう。

しかし、父と「いつも一緒にいて、今も一緒にいる」のは、ずっと実家にいた兄息子なのです。

父親は兄息子に言います。

「私のものは全部おまえのものだ」と。

恵みは、いつも兄息子のすぐそばにあるのです。「求め」さえすれば、自分が恵みに囲まれていることを感じることができたでしょう。

チャールズ・スポルジョンは「あなたの神に遠慮してはならない」と言いました。

あなたはどうでしょう?

あなたの御父に遠慮する必要はありません。

「仕えて来た」ということと引き換えにではなく「子ども」として願いなさい。

エペソ1:3
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

「天上にあるすべての霊的祝福」は、すでに注がれています。私たちはすでに「祝福された」のです。

かしこまらずに、ただキリストの血だけをたずさえて「天のお父様」と呼んでご覧なさい。

遠慮せずに、子どもとして駆け寄ってご覧なさい。

主は、あなたを恵もうと待っておられます。あなたをあわれむために駆け寄って来てくださるでしょう。

天のお父様、あなたの恵みを感謝します
あなたは決して私を拒まれません
恵みに取り囲まれていることを実感させてください