【Ⅱコリント7:10】
神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
悔い改めは「救い至る」ものです
「悔い改め」とは「後悔」ではありません。これは個人的な意見ですが…
私は「悔い改め」とは、言い換えるならば「イエス様について行くと決めること」だと思います。
「罪を犯してしまいました。二度としません」と決断することではないのです。
そんな決断はすぐに破られるでしょう。そして、すぐにまた決断することになるでしょう。「また罪を犯してしまいました。もう二度としません」と決めることになります。そして「またまた罪を犯してしまいました。今度こそ二度としません」とエンドレスに続くでしょう。
「悔い改め」とは「向きを変えること」だと言われます。私はそれに付け加えて言いたいのです。向きを変えたら「走って逃げろ」と。
サタンの支配から、神の元へ走って行くのです。放蕩息子が父の元へ走ったように。そして、もう「二度と離れまい」と決めるのです。
覚えてください。
「罪を犯さない」と決めるのではありません。「イエス様について行く」「イエス様から離れない」と決めるのです。
悲しむことは悪くはありません。罪を犯したら、心は痛くて悲しいです。けれど間違ってはいけません。悲しむことは「悔い改め」ではありません。
「世の悲しみ」は死をもたらすのです。「世の悲しみ」は、「後悔」を生じさせます。「なぜ、あんなことをしてしまったのか」と嘆きます。「もう取り返しがつかない」と思わせます。
しかし、神の御心に添った悲しみがあります。それは「悔い改め」を生じさせます。「悔い改め」はイエス様を見上げさせます。なぜなら「救いに至らせる」ものだからです。
あなたが、もし、罪を犯してしまって「もう神様を見上げることはできない」と打ちひしがれているならば…
もちろん、罪を犯した直後は、そのような気持ちになってしまうでしょう。罪を犯したまま平気で、主の御前に出られる人はいません。
しかし、ずっと打ちひしがれたままであるならば…
それは、「悔い改め」ではなく「後悔」です。そのままでは、「救いに至る」ことはできません。
私達に必要なのは「後悔」ではなく「悔い改め」です。その罪をふり捨てて「イエス様に従うこと」です。
「どうしてこんなことをしてしまったのか」と嘆いて、罪を見続けないでください。
「もう二度と罪を犯すまい」と決意しても「罪を見続けて」いれば必ずまた罪に囚われます。
「イエス様について行く」と決めて「イエス様を見続ける」ならば、キリストが私を捕らえてくださいます。
私はうしろのものを忘れます。
ただ前に向かって手を伸ばします。
イエス様が私を捕らえてくださいます。