黙示録6章2節
私は見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に勝利を得るために出て行った。
まず、何のために預言を学ぶのかを考えます
黙示録6章の学びに入りましょう。
6章以降の出来事は、「黙示録4章」を携挙の時とするかどうかによって大きく見解が異なります。
「4章」で携挙されているとするならば、これ以降のことは「患難時代」について記されているということになります。つまり、もうすでに「教会」は、この地上にはいないという立場です。
ですから、今、この時代に「教会」が存在しているかぎり「七つの封印」は解かれていないのだと解釈するわけです。
そうすると「ここからの啓示」を学ぶ意味を見出せないという人もいるだろうと思います。
「すでに地上にいないのだから、さばきについて学んでも仕方がない」と思う人もいるでしょう。
私は、個人的に「4章」が携挙を表しているとは考えていません。それは、以前の学びでお話しした通りです。
私は「4章」が携挙を表すとは考えていませんが「携挙」を信じています。そして、少なくとも「大患難」と呼ばれる最後の三年半には、この地に「主にある教会の聖徒」は一人もいないと信じています。
だからと言って「最後の三年半の啓示」を学ぶ意味がないとは「これっぽっち」も思いません。
そして、多くの人が信じているように「4章」が携挙を表すとしても、やはり「ここから」の啓示を学ぶ価値はあると思っています。
「バビロン捕囚」の預言は、それを聞く多くのイスラエル人たちには「関係のないこと」でした。預言は何十年も前から発せられていました。聞いた人々がみな捕囚にあったわけではありません。預言が実現する前に寿命が尽きた人々も多く存在しました。
それでも人々は「聞かねばならなかった」のです。彼らは「悔い改めて神に立ち返る」必要があったからです。
同じようにペテロはこう言っています。
私たちは「この天地が崩れ去る」ということを知ります。
それは、この地に生かされている間「聖なる敬虔な生き方」をするためです。
確かに「神は愛」です。しかし、同時に「聖なる方」でもあるのです。
黙示録を学ぶなら、私たちは「聖なる方」を知るでしょう。
そして、公平にさばかれる方の最終的な「怒り」がどのようなものであるかを知ることになります。
主が望んでおられるのは、私たちが「御怒りにあわないこと」です。そのためにイエス様は十字架に架かってくださったのです。
私たちは、黙示録を学ぶとき「イエス様に注がれた神の怒り」の激しさを垣間見るでしょう。
そして「贖いの尊さ」を痛感することでしょう。
そして、地上に生かされている間、聖なる敬虔な生き方をしたいと切に望むようになるでしょう。
黙示録の啓示を学ぶ理由は、他にもいろいろあるでしょうが、最も大切な理由はこのことだと私は思います。
愛する兄弟姉妹。
黙示録にあらわされる「神の思い」を知りましょう。
これから解かれる「封印」は、神の意志の解放です。私たちは「神の意志」を知るように招かれています。
「神の意志」を精一杯に受け留めましょう。
そして、主の御心のとおり「聖なる者」として歩みましょう。
白い馬に乗っている人とは…
さて、それでは「6章」の内容を学んでいきましょう。
使徒ヨハネは、子羊の行動に注目しています。
屠られた子羊である主イエスは、巻物を手にしておられます。そして、今、その巻物の封印を解かれるのです。
巻物の「七つの封印」は解かれました。
ここから「封印」が解かれるたびに「何かが」起こります。使徒ヨハネは、それを一つ一つ記録しています。
「この後、必ず起こること」が始まるのです。
「四つの生き物」の使命は礼拝をささげることだけではないようです。
本当に不思議な「生き物」ですね。ケルビムだかセルフィムだか分かりませんが、彼らには「権威」が与えられているようです。
四つの生き物は「封印」が解かれた後、その内容を「解き放つ」ように任命されているのです。少なくとも「第一から第四の封印」に関してはそうでしょう。
子羊が「封印」を一つずつ解かれるたびに、四つの生き物が「来なさい」と言うのです。
「来なさい」とは「現れよ」「いでよ」と訳してもいいかもしれません。また「行け」という意味もあります。
四つの生き物は、それぞれの馬に対して「出現せよ」「行け」と命令するのです。
今回は「第一の封印」について学びます。次回は「第二の封印から第四の封印まで」を学ぶ予定です。
第一の封印が解かれた後、生き物の一つが「来なさい」と言いました。
さて、第一の封印が解かれた後、現れたのは「白い馬」でした。そして、その馬には「冠をかぶり」「弓を持った」者が乗っていたのです。
この「白い馬の乗り手」は、何を表すのでしょう。後に続く三頭の馬に関しては、あまり異なる意見はありません。
しかし、この白い馬に関しては「正義」と見るか「邪悪」と見るか意見が分かれてしまいます。
多くの人がこれは「キリストだ」と言います。
また、これまた多くの人が「いや、反キリストだ」と言います。
はたまた、その後に続く「馬」には「固有名詞」を当てはめないのだから、白い馬にもあてはめるべきではないという意見もあります。つまりは「キリストの霊」なのか「反キリストの霊」なのかということです。
いつもながら、どの意見も「そうかもしれない」と思わされるもので断定はできませんね(笑)
一応、双方の意見を一つずつ引用しておきましょう。どちらも少し長めの引用になります。
まずは奧山実先生の本から…
この先生(韓国の高龍元師)も、私と同じ意見で、四章を携挙として見ません。そうすると六章を、主の再臨の前に起こる七大事件として理解することができます。七大事件ですが、すべてが悪いとは限りません。その高先生の主張、理解が素晴らしいので、ここにそれを取り入れます。(というのは、この先生は共産主義が最も盛んな時、「ヨハネの黙示録」から、その崩壊を預言し、その通りになったからです。)
まず、白い馬とは「黙示録十九章十一節」の白い馬と関係があります。つまり主イエス・キリストと関係があります。高先生は、これを中世期から近世にかけて世界に拡大したキリスト教(カトリック・プロテスタント両方)の世界支配、植民地化とみます。というのは、とにかく、それによって世界中がキリスト教化されたのです。「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った」のです。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
この解釈のほかに「白い馬」は、終わりの日に爆発的に起こるリバイバルのことだと主張する人もいます。
実際、私も以前はそのように思っていました。今でも「終わりの日に大収穫が起こる」こと自体は信じています。
もう一つ引用しましょう。こちらは「反キリスト」だという解釈です。
一番最初に出て来る「白い馬」(黙6:2)は、恐らく反キリストです。白い馬は「来なさい」と四つの生き物の一つから命令されて出てきているからです。もしそれがイエス様であるなら「来なさい」という命令形のことばで命じられることはありません。黙示録に書かれてている「白」はすべてイエス様に関連したものの色ですが、この箇所だけは、キリストの真似をしている偽物のキリスト。つまり反キリストというわけです。
イエス・キリストはもう一度来られる 栄子・スティーブンス著 オメガ出版
どちらの意見も学ぶところがありますね。
私たちは、主イエスが来られるまで先走ったさばきをすることは控えましょう。
しかしながら、自分の意見を持ってはいけないということはありません。私たちは、よくよく聖書を学び、聖霊に教えられ導かれていきましょう。
それは全地に蔓延する「惑わし」かもしれません
さて、この「白い馬の乗り手」ですが…
ここからは、あくまで個人的な意見です。
まず、私はこの白い馬の乗り手は「反キリストの霊」つまり「惑わし」「欺瞞」を擬人化したものであると考えます。
「白い馬」と聞くと何となく「聖なる」というイメージを持ってしまいます。多くの人が、これを「キリストだ」と思う気持ちも分かります。実際に、私も以前はそう考えていました。
確かに、イエス様は「白い馬」に乗って戦われます。
これは「再臨のイエス様」の描写です。
「白い馬」に乗っておられる方は「確かで、真実な方」です。そして「多くの冠」をかぶっておられます。
その「冠」は「支配者の冠」「統治者の冠」です。
しかし、第一の封印の「白い馬の乗り手」がかぶっている冠は「勝利者の冠」です。何度か出てきましたね。つまり「競争の勝者がかぶるリース」です。
第一の封印の白い馬は「統治者」を乗せてはいません。
「白い馬の乗り手」は「弓」を持っています。剣よりも「広範囲」に影響を及ぼせるという象徴でしょう。
「白い馬の乗り手」は、全世界に影響を及ぼします。人々は、彼に吞み込まれていくのです。
彼は「勝利者の冠」を与えられています。「勝利の上にさらに勝利を得る」ために全世界を駆け回ります。
こうなると「白い馬の乗り手」は「福音」とか「宣教」としても「当てはまる」ように思えますよね。
確かに「エルサレム」から「地の果て」まで「福音」は進展し続けています。
けれど、世界には「惑わし」が蔓延することも、また確かなのです。
第一の封印が解かれて出て来たのは、「白い馬」です。これに乗る者は、弓を持ち、冠を与えられて勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行ったとあります。「白い馬」という表現は黙示録の19章に二回出てきます。そして、それらはキリストを指していることは明瞭です。しかし、6章の「白い馬」はそうではありません。6章の「白い馬」は惑わしです。「白」は神の色、聖さの色ですが、サタンは光の御使いにさえ変装できるのです。人々を惑わす天才です。そして、その白い騎手は反キリストです。
黙示録 牧師の書斎より 銘形秀則師
私は「白い馬の乗り手」を「反キリスト」その人であるとは思いません。しかし、6章の「白い馬」が「惑わし」であるということは、まさにその通りだろうと思います。
私は、「白い馬の乗り手」は、世に出て来た「反キリストの霊」であると考えます。それは「惑わし」「欺瞞」が擬人化されたものであると思うのです。
本物の「反キリスト」が出現する前に、「反キリストの霊」が世の中を席巻するのです。多くの人が「反キリストの霊」に影響されます。
世界は「反キリストその人」が登場する準備を整えています。「反キリストの霊」は、多くの人々を導くようになります。それから、満を持して「反キリストその人」が現れるのです。
弟子たちは「世が終わる時のしるしは、どのようなものですか」とイエス様に尋ねました。
イエス様は、まず「惑わし」が起こると言われました。
「戦争のこと」の前に「惑わし」について言及されたのです。「飢饉や地震」の前に「惑わし」について言及されました。
世の終わりには、まず「惑わし」が起こるのです。
まず「白い馬」が駆け巡ります。
サタンは「確かで、真実な方」が受け入れられないように、人々の目を曇らせます。
「永遠のいのち」を持っておられる方を見えなくし「目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢」で満ち溢れさせます。それこそが「豊かないのちだ」と偽りを吹き込むのです。
「惑わされる」とは「横道にそれさせる」「判断を誤らせる」「道を迷わす」などという意味です。
愛する兄弟姉妹。
誰にも惑わされてはなりません。世の中には「欺瞞」が満ちているのです。
あなたを「横道にそらすもの」は何ですか。
何があなたの「判断をあやまらせ」ますか。
バプテスマのヨハネは、イエス様の通られる道をまっすぐにしました。心のデコボコ道を平らにし「王の王」が入って来られる大路を整えたのです。
ちょうどその逆のことをサタンは目論んでいます。
「横道にそれささせ」「判断を誤らせ」、何が良いことなのか、何が神に受け入れられるのか分からないようにさせるのです。
その結果、多くの人が「当然のこと」として、獣の刻印を受けるようになるでしょう。
今もうその道が整えられているのです。
「惑わし」は世界を駆け巡っています。それこそ、人々を征服し「勝利から勝利へと」進んでいるのです。
ですから、愛する兄弟姉妹。
決して「惑わされて」はいけません。
まだ「先のことだ」と思って油断していてはなりません。
「自分の時代には反キリストは現れないだろう」という考えではいけません。
「不法の秘密」は、今すでに働いています。「惑わし」は駆け巡っているのです。
その「白」に騙されてはなりません
私は、白い馬の乗り手は「反キリストその人」ではなく「反キリストの霊」「惑わし」「欺瞞」の擬人化だと言いました。
わざわざ「反キリストその人ではなく」と言ったのは、ただの「こだわり」ではありません(笑)
私は、第一の封印は「大患難の前」に解かれていると言いたいのです。
すでに「第一の封印」は解かれていて、白い馬は解き放たれていると私は思うのです。
実際、第四の封印まで解かれていて、それぞれの馬がすでに駆け巡っていると思っています。
「白」に騙されてはいけません。
偽預言者、偽使徒、偽教師が多く現れます。サタンでさえ「光の御使い」に変装するのです。
「白」だから「聖い」ということはありません。
イエス様は、パリサイ人に「白く塗った墓」と言われました。
「見かけは白くていい感じに見えるけれど、中身は腐敗と死で満ちている」と言う意味です。
愛する兄弟姉妹。
今は、終りの時です。多くの「反キリスト」が現れています。「欺瞞」「惑わし」が蔓延しています。
どうか「人はうわべを見るが、主は心を見る」ということを覚えていてください。
ダビデの祈りが私たちにも必要です。
今は「しっかりと立つ時」です。
他人の信仰では「救われない」のです。あなたの家族が敬虔な聖徒でも、あなた自身が信じていなければ救われません。あなたの教会がいくら立派でも、あなた自身がイエス様にとどまっていなければ、携挙されることはありません。
騙されてはなりません。
「偽りの唇」「欺きの舌」を退けましょう。
サタンは「眠っていても大丈夫。神は愛じゃないか」と言うでしょう。しかし、御言葉は「眠っている人よ、起き上がれ」と言っています。
今、起き上がりましょう。立ち上がって、主を見上げましょう。
そうすれば、主の光があなたを照らします。
光の中を歩みましょう。そうすれば、道を見失うことはありません。光に照らされて歩みましょう。主と交わりを保っているならば、御子イエスの血が私たちをきよめてくださいます。
サタンの変装は、まことの光によって暴かれます。主の光がそれを「明らか」にするのです。
世の中には、これからも「欺瞞」「惑わし」が満ちるでしょう。
しかし、恐れてはなりません。
私たちには「確かで、真実な方」がおられます。
イエス様の口からは「鋭い剣」がでています。主は、みことばの剣をもって戦われます。
私たちも、主イエスの兵士として戦えます。御言葉の剣を振りかざし、雄々しく立ち続けましょう。
祝福を祈ります。