No.444 主よ、とこしえの道に導いてください

案内する

詩篇139:23~24
神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。

徹底的に調べてくださいと言っているのです

人の心は「ねじ曲がっている」とエレミヤは言っています。

エレミヤ17:9
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。

パウロでさえも「自分のしていることが分からない」と告白しています。

ローマ7:15
私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

「人の心」とは、自分の力ではどうにもならない「ねじれ」を持っていて「自分でも分からないもの」なのです。

ゆえに、ダビデは祈りました。

詩篇139:23~24
神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。

「探り」とは「捜す」「徹底的に調べる」「研究する」などとも訳せる語です。

「調べ」とは「試みる」「吟味する」「精密に見る」という意味です。

つまりダビデは「徹底的に、余すところなく、細かく、底の底まで」自分の心を見てくださいと求めているのです。

それは「自分の潔白」を証明するためではないでしょう。むしろ、逆であると思います。

ダビデは「導かれたい」のです。「導かれる」とは「案内される」という意味です。

ダビデは「とこしえの道に案内されたい」のです。

そのためには、主によって「傷」が癒される必要があるのです。

「傷」と訳されているヘブル語にはいろいろな意味が含まれています。

「傷」「悪いこと」「悲しみ」「よこしま」「不義」「痛み」「偶像」などという意味があります。

ダビデは、自分の心に隠されている「さまざまな傷」を知ってくださいと願っています。

あなたの中にある「傷」は「悲しみ」かもしれません。

それとも「痛み」でしょうか。

もしくは「よこしま」な思いに悩まされているでしょうか。

それとも「偶像」を密かに隠しているでしょうか。

いずれにせよ、それらの「傷」は、あなたを「とこしえの道」から迷い出させるものです。

「とこしえの道」とは「いのちの道」です。「とこしえの道」から迷い出るならば、私たちは「いのち」を失ってしまいます。

私たちは「自力」で「とこしえの道」を歩むことはできません。自分で「自分の心を案内する」ことはできないのです。

私たちには「導いてくださる方」がどうしても必要なのです。

ゆえに、祈りましょう。

私たちは、ダビデの祈りを自分の祈りとしましょう。

すでに「すべてをご存知の方」の御前に、自らの意志をもって「心を明け渡す」のです。

「主よ、知ってください。探り、調べ、すべての傷を癒してください。慰めを与え、悔い改めに導いてください。そして、私をとこしえの道に案内してください」

主は、あなたの思いを「読み取って」おられます。主は、あなたの願いに応えてくださいます。

主は、あなたを「とこしえの道」に案内してくださいます。

私たちは、主に導かれて歩くのです。

主よ、私を探って調べてください
主よ、私の傷を癒してください
私をとこしえの道に案内してください