No.419 主のご性質を信じて「みこころ」を要求するのです

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マタイ21:22
あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。

信じて求めるなら受けます

イエス様は「信じて祈り求めるなら何でも受けることになります」と言われました。

ここで「求める」と訳されている語は「要求」と訳すこともできます。

「要求」とは「当然のこととして相手に強く求めること」です。

祈りとは「もしできることなら叶えてください」とすがることではありません。

「祈り」とは、願いを叶えてもらえるまで「何度も繰り返して嘆願する」ことではありません。

「祈り」において最も大切なことは「どの立場に立って祈るのか」と言うことです。

つまり、私たちは「それを要求できる立場」に立っているのだと確信する必要があります。

そのためには「神との関係」を保っていなければなりませんね。

常に「キリストの血潮」によって「神の子」として、御父に近づくことです。

マタイ21:22
あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。

弟子たちが「キリストにある」という権威に立って「要求」することは「何でも受ける」ことになります。

私たちが「子として」の立場に立って、神のご性質にかなうことを「要求」するならば、必ず「受ける」ことができるのです。

ですから「主よ、もし御心でしたら、私の苦しみを解決してください」と祈ってはなりません。それは「みこころ」なのだと確信を持って「要求する」のです。

詩篇12:5
主は言われます。「苦しむ人が踏みにじられ 貧しい人が嘆くから 今 わたしは立ち上がる。わたしは彼を その求める救いに入れよう。」

主は「苦しむ者」のために立ち上がって介入してくださる方です。

「天の父よ、あなたは苦しむ者のために立ち上がられる方です。その求める救いに入れてくださる方です。あなたは、あなたの子が苦しむのを黙って見てはおられません。今、私の苦しみに介入してください。立ち上がって、私を救いに入れてくださるように求めます」

「求める」とは、主のご性質に信頼して「みことば」の通りになるように要求することです。

私たちが「信じる」のは「状況」や「願いが成就すること」ではありません。

私たちは「主のご性質」に信頼するのです。

主は「苦しむ者のために立ち上がってくださるあわれみ深い方」です。

主は「倒れているものを起こしてくださる力強い方」です。

主は「怒るのに遅く恵み豊かな方」です。

主は、あなたが「倒れたまま」でいることを喜ばれません。

主は、あなたが「傷ついたまま」でいることを望まれません。

主は、あなたが「貧しいまま」でいることを最善とは思っておられません。

私たちは「主のみこころ」を知りましょう。そして、主のみこころに添う者となりましょう。

主のみこころと「自分の思い」を合わせることです。

そうすれば「みこころにかなう祈り」がいつもできるようになります。

主のご性質を信じて、キリストにある者として「みこころ」を要求するのです。

そうすれば「何でも受けることになる」のです。

私はキリストにあって神の子どもです
御子イエスの血はすべての罪からきよめてくださいます
私は、キリストにあって、今すでに義と認められています