No.412 主の御名が置かれるならば「祝福」されるのです

バラ園の黄色

民数記6:27
アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。

わたしの名を置くなら祝福すると言われます

主は、私たちを祝福したいと望んでおられます。

民数記6:27
アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。

祝福を受けるために必要なことは「主の御名を置く」ことです。

主は、大祭司アロンに祝祷を示してくださいました。

民数記6:23
アロンとその子らに告げよ。「あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。

「祝祷」は、アロンたちが自分勝手に作り出した祈りではありません。

主ご自身が「このように祝福しなさい」と示されたものです。

民数記6:24~26
主があなたを祝福し、
あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、
あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、
あなたに平安を与えられますように。

これは、主の「みこころ」です。

主が、あなたに与えたいと望まれる「祝福」です。

アロンが、「このように祝福」するならば、イスラエルの民の上に「主の御名が置かれる」のです。

民数記6:27
アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。

「祝福」は「主の御名が置かれる」ところに注がれます。

「祝祷」は魔法の言葉でも呪文でもありません。ただ暗記して唱えればよいわけではありません。そのような軽々しい扱いをしてはなりません。

「主の御名を置く」のだという敬意と信仰が大切です。

「主が」祝福してくださるのです。

「主が」恵んでくださるのです。

「主が」平安を与えて下さるのです。

すべてに、主の御名を置きましょう。

「置く」とは、その置くものに「ある位置を占めさせる」という意味です。

祝祷とは、主の御名のもとに「あるのだ」という宣言です。

私たちの上に「主の御名が置かれてる」ならば、私たちは「主の名」で呼ばれることになります。

出エジプト28:36
また、純金の札を造り、その上に印象を彫るように「主の聖なるもの」と彫り、

大祭司アロンの額の上には「主の聖なるもの」という純金の札がありました。

そのように、私たちにも「主の御名が置かれる」なら「主の聖なるもの」という印が押されるのかもしれません。

見えない戦いにおいて、それは「とても有効」であると私は思います。

私たちは「主の御名」を置きましょう。「このように祝福しなさい」と命じられているとおり、祝祷をささげましょう。

自分の上に「主の御名を置いて」歩みましょう。

兄姉のうえに「主の御名を置き」ましょう。彼らが祝福されるためです。

あなたの上に「主の御名」が置かれているならば、敵は震えあがるでしょう。

誰も「主の御名」に立ち向かうことはできません。

「主の御名」が置かれているなら、主は必ず祝福してくださいます。

私は「主の御名」の下にいます
主が祝福してくださいますように
主が御顔を照らしてくださいますように