Ⅱコリント3:6
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
文字は殺し、御霊は生かすのです
私は「八木重吉」という詩人が大好きです。
彼の詩を一つ紹介したいと思います。
題名:信仰
人が何と言ってもかまわぬ
どの本に何と書いてあってもかまわぬ
聖書にどう書いてあってさえもかまわぬ
自分はもっと上をつかもう
信仰以外から信仰を解くまい
わがよろこびの頌歌はきえず 八木重吉のこころ いのちのことば社
「聖書にどう書いてあってさえもかまわぬ」とは、またまた大胆な宣言ですね。
私は、聖書の御言葉をとても大切に思っています。「どう書いてあるか」にとても左右されます(笑)
しかし、同時に「文字」につまずいてはならないと自分を戒めてもいます。
世の中の所謂「宗教学者」と呼ばれる人たちがみな、信仰を持っているわけではありません。しかし、彼らは聖書を原語で読めますし、歴史的な背景にも詳しいのです。私も、歴史や当時の習慣などを学ぶときにお世話になります。
けれど、いくら「学問」として聖書を知っていても、それでは「本当の意味で知ったこと」にはならないのです。
「聖書」をただの「文字」として扱うならば、そこに「いのち」は流れません。むしろ「文字は殺す」と記されています。
しかし、そこに「御霊」がおられるならば、私たちは「生かされ」ます。
もう一つ、重吉の詩を紹介しましょう。
題名:聖霊
聖書が聖霊を生かすのではない
聖霊が聖書を生かすのだ
まず聖霊を信ぜん
聖書に解きがたきところあらば
まず聖霊に聞かん
聖書のみに頼る信仰は危うし!
われ今にしてこれをしる、おそきかな、
わがよろこびの頌歌はきえず 八木重吉のこころ いのちのことば社
聖霊様こそ「聖書の著者」です。そこに込められた「神の思い」のすべてを知る方です。
私たちは、御言葉の内に「神のみこころ」を見ます。
「神の心」のことは「御霊」以外に解き明かせません。
「聖書のことば」の背後には「神のこころ」があるのです。
尊い聖書の言葉を「ただの文字」にしてしまうのは「私自身」です。私の「向き合い方」が問題なのです。自分で「聖書を読める」という高慢な思いが問題なのです。
「みことば」の背後にある「神のこころ」「神の思い」を求めないなら、それは「文字」となります。聖霊様の御助けがなければ「生かすみことば」にはならないのです。
愛する兄弟姉妹
主の「みこころ」を求めて、聖書を読みましょう。
そこに書いてあることの「背後」にある「神のみこころ」を求めましょう。
聖霊様がどうしても必要なのです。
聖霊が聖書を生かすのだ
まず聖霊を信ぜん
私たちは「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者」です。
「生かす御霊」によってのみ「いのちのことば」が解き明かされるのです。
生かす御霊よ、どうか解き明かしてください
私は、文字ではなく御霊に仕える者です
主よ、私を御霊の自由の中に生かしてください