No.406 「これは何?」という驚きをもって御言葉を読みます

新鮮野菜

出エジプト16:15
イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何であるのかを知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えて下さったパンだ。

主は、マナを与えてくださいました

主は、イスラエルに「天からのパン」を下さいました。

それは不思議なものでした。

出エジプト16:14
その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。

イスラエルの人々は、今までこのようなものを見たことがありませんでした。

ですから、彼らはそれに近づいて「これは何だろう」と言ったのです。

出エジプト16:31
イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった。

イスラエルの人々は、この不思議なものを「マナ」と呼びました。

「マナ」とは「これは何だ」と言う意味です。

つまり、彼らは、毎朝「これは何だ」と言いながら「天からのパン」を集めたのです。

コエンドロの種とは、コリアンダーのことだと言われます。「白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった」と記されていますが、どのような味であったのか気になりますね。

イスラエルの人々は、その不思議な食物に驚きました。そして、毎朝、毎朝、必ず降って来る食物を有難いと思ったでしょう。

しかし、それも束の間でした。

民数記11:4~6
彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただ魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」

イスラエルの中に「エジプトが混じって来ていた」のです。その「混じって来た者たち」に先導されて、イスラエルは「肉が食べたい」と泣き叫んだのです。

彼らは「恩知らずな子」となり「マナしかない。マナには飽きた」と叫んだのです。

エジプトとは「この世」の型です。「この世」に引きずられてはなりません。

主は、日々「これは何だ」と驚きながら、恵みを拾い集める者を喜ばれます。

悪しき者は、マナを集めさせないように企みます。

「お前の手には何もない。マナなんかあっても役に立たないだろう」と言ってきます。

「何の変化も起こらないじゃないか。いつも同じマナだけでは飽きるだろう」と言ってきます。

哀歌3:22b~23a
実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。

主のあわれみは尽きません。約束の地に入るまで「マナ」は降り続けました。それは常に「朝ごとに新しいマナ」です。昨日の「マナ」ではありません。

「これは何だ」という驚き、最初の感動を失くしてしまうとき、そこには「不平不満」が生まれます。

主は、私たちに必要な「マナ」を朝ごとに与えて下さいます。

天からの「いのちのパン」であるイエス様を、毎朝、驚き仰ぎ見ましょう。

「これは何だ」という好奇心、感動を持って、イエス様にお会いしましょう。朝の祈りの時を「ただの儀式」にしてしまうのはもったいないことです。

主のあわれみは尽きません。

それは常に「朝ごとに新しい」のです。

私は、新鮮な驚きをもって聖書を読みます
主のあわれみは尽きません
それは、常に朝ごとに新しいです