No.404 私は「やめる」ことを選びます

静けさを選ぶ

詩篇46:10
やめよ 知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。

「やめる」とは「静まること」「手放すこと」です

主は「やめよ 知れ」と言われます。

「やめよ」と訳されている語は「手放す」「捨てる」「失う」「静まる」「手を引く」「降伏する」「弱くする」などという意味があります。

主は、まず「やめよ」と言われます。

私たちは、主の御前に「静まる」ことが必要です。

多くの「情報」が私たちの周囲にはあります。多くの人の意見が聞こえてきます。自分の心もざわついています。やらなければならないことが多くあります。

しかし、主は、そのような騒々しさから「離れよ」と言われるのです。

主の御前に「静まる」ことを選びましょう。

確かに時間は過ぎていきます。家のことはしなければなりません。仕事だって待ってはくれません。奉仕もしています。

それでも、私たちは「静まる」ことを選ばなければなりません。

それは、何かを「やめる」ことです。何かを「手放す」ことです。何かから「手を引く」ことであり、自分を「弱く」することです。

覚えてください。

「やめる」のは「知るため」です。

詩篇46:10a
やめよ 知れ。わたしこそ神。

私たちは、御前に「静まる」ことを選びましょう。

それは、私の「思い」から解放されるためです。

私たちの「考え」を超越するためです。

人の限界ではなく、神の無限の力に期待するためです。

「弱くする」のは、神の御力におおわれるためです。

私たちが「やめる」ならば、「主こそ神」であることを知ることができます。

すべての戦いは「主こそ神である」ことを人々が知った時に終わります。

誰も、主の御前で戦いを続けることはできません。どんな戦いも終わります。どんなに強い指導者も「主の来臨の輝き」の御前には倒れ伏すしかないのです。

私たちの「心の戦い」も、臨在の中でひれ伏すならば「終わり」ます。

ピリピ4:6~7
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を越えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

「何も思い煩わない」とは、言い換えれば「やめる」ことです。

時間を委ね、持っている物から手を放すことです。自分で策を練ることをやめることです。すべての計画から手を引くことです。

そうすれば「すべての理解を越えた神の平安」が与えられます。

そして、それこそ「神を知る」と言うことです。

私は「やめる」ことを選びます
主の御前に静まってひれ伏します
主よ、あなたを知ることができますように