No.403 私は朝明けまでに主の奇跡を見たいのです

朝明け

詩篇46:3
神はそのただ中におられ その都は揺るがない。神は朝明けまでに これを助けられる。

朝明けまでに助けられる

コラ人たちは、確信をもって「朝明けまでに」と歌っています。

詩篇46:3
神はそのただ中におられ その都は揺るがない。神は朝明けまでに これを助けられる。

彼らは「神は朝明けまでに これを助けられる」と信じているのです。

私は「助けが来なかったとき」の言い訳として「いつか」という言葉を使います。

「期限を切る」ことに「懐疑的」になるのは「来なかったらどうしよう」という不安を隠すためです。

誰かが「朝明けまでに何とかなるよ」と言ったとしたら…

私は恐らく「何を根拠にそんなことを言うのか」と思うでしょう。

けれど「根拠」とは何でしょう。

「根拠」とは、それが正しいと証明するための「拠り所」のことです。

詩篇46:1
神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある助け。

主こそ、我らの「避け所」「拠り所」です。

つまり私たちの根拠は「主ご自身」なのです。

苦しくて、辛くて、必要が迫っている人に「いつか助けが来るからね」と言うのは簡単です。

しかし、私は「今」助けが欲しいのです。

確かに、祈りの答えが「すぐに」与えられないことがあるのは事実です。忍耐が大切だという教えは真理です。私たちは「待つ」ことを学ばせられることがあります。

しかし、私はそれを「言い訳」に使うのは、もうやめたいのです。

主が「待て」と言われるなら待ちましょう。しかし「助けが来ないかもしれない」と思う不信仰を隠すために「教理で武装すること」は、もうやめたいのです。

主は苦しむとき「そこ」にある助けです。「そこ」とは「すぐそばにある」ということです。

主は、常に「すぐそば」におられます。手を伸ばせば触れることができるほど「近く」におられるのです。

主は、私たちを助けてくださいます。「朝明けまでに」助けてくださいます。

私たちは、毎日、信じようではありませんか。

日々、奇跡を見ることができるのだと期待しようではありませんか。

神は「避け所」であり「力」なのです。

私は、現実の生活の中で「力強い神の御手」が現わされるのを見たいのです。

私たちは、本気で祈りましょう。期待を持って祈りましょう。

「みこころが天で行われているように、地でも行われますように」と祈りましょう。実際、この祈りは非常に攻撃的な祈りです。これは「みこころよ成れ」という宣言です。

天の光が、この地の上に輝き渡ることを期待してもよいのです。

主は助けてくださいます。朝明けまでに。

日々、助けてくださいます。

私たちは、朝毎に新しい奇跡を見ることができるのです。

主よ、不信仰を認めます
私の信仰を純粋なものとしてください
あなたの御力を信じます