No.393 認めるとは、勘定に入れて生きることです

つかまり立ちの赤ちゃん

ローマ6:11
同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだものであり、神に対して生きた者だと、認めなさい。

認めなさい、と言われます

パウロは「認めなさい」と言っています。

私たちは「何を認める」のでしょうか。

ローマ6:10
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

イエス様は「ただ一度罪に対して死なれ」ました。そして今は「神に対して生きておられ」ます。

ですから「同じように」私たちも「自分は罪に対し者死んだ者であり、神に対して生きた者だと、認めなさい」と命じられているのです。

「認めなさい」と訳された語は「計算する」「勘定に入れる」「考慮に入れる」などという意味があります。

ある人は「証拠を考慮に入れて判決を出す」と訳しています。

私は、個人的には「勘定に入れる」という訳が気に入っています。

それでは、私たちが「勘定に入れるべきこと」とは何でしょう。

それは「キリストが罪に対して死なれたので、私も同じように罪に対して死んだ者だ」ということです。

また「キリストが神に対して生きておられるので、私も神に対して生きている者だ」ということです。

日々の歩みの中で、私たちはこれらのことを「勘定に入れて」生きなければなりません。

それが「認める」と言うことなのです。

私たちが「認める」ことのできる根拠は「キリスト」です。

私たちは、イエス様と「同じように」なるのです。

ローマ6:8
私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。

私たちは信じています。私たちは「キリストと同じように」なるのです。

「後に」そうなるのではありません。

「今」すでにそうなのです。

私たちは「今」すでに「罪に対して死んだ者」です。

誘惑に立ち向かう時、そのことを「勘定に入れて」ください。

「自分は罪から逃げられない」などと告白しないでください。死んだ者は、罪から解放されているのです。

悪しき敵は「おまえには、新しい歩みはできない。無理だ」とささやくでしょう。

しかし、私たちには「死んでくださった方」がおられます。

イエス様を「勘定に入れる」ことを忘れないでください。

私には「無理」に見えても、キリストの御業は「完全」であることを覚えてください。

御父は、御子にあって「私たちを罪に対して死んだ者だ」と認めておられます。

また、御子にあって「神のために生きている者だ」と認めてくださっています。

なぜなら、御父は、常に「御子イエス」を勘定に入れておられるからです。

私たちも「同じように」しましょう。

日々、イエス様の御業を「勘定に入れて」歩みましょう。

「私は、キリストとともに死にました。ゆえに、キリストとともに生きます」と告白しつつ歩みましょう。

私は罪に対して死にました
私は神に対して生きている者です
イエス様の御業は完全です