黙示録3:18
わたしはあなたがたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。
実は「裸」であることを知らない人たち
イエス様のラオディキア教会に対する忠告を学んでいます。
前回は「火で精錬された金を買いなさい」と言われたことを学びました。
今回は「白い衣を買いなさい」と言われたことを学びます。
ラオディキアは「金融」「繊維産業」「薬」で有名な町でした。ラオディキアの特産品は「黒いウール」であったと言われます。
アダムとエバの時代から、人は「着る物」を手に入れて生きてきました。
最初の人は自分の裸を隠すために「いちじくの葉」で身を覆いました。神の栄光を失った二人は「自分たちが裸であることを知った」からです。
主は、そのような二人に「皮の衣」を作って着せてくださいました。
皮の衣を作るためには、何かの「生き物」が犠牲とされなければなりません。ある人は、このときに犠牲とされたのは「羊」であったと言っています。そうであったかもしれません。
しかし、確実なことは「血」が流されたということです。
アダムたちの「裸の恥」を覆うために何かの「犠牲」があり「血」が流されたのです。
「贖い」とは「覆う」という意味でもあります。
御子イエスの血潮によって、私たちは「贖われ」ました。私たちは「キリストにあって」覆われているのです。
ラオディキアの教会は、そのことを忘れてしまったようです。
いえ、覚えてはいたのでしょう。一応「教会」なのですから。
しかし、彼らにとって「贖い」は形式上の宣言に過ぎませんでした。
私たちはどうでしょう。
私たちは「主にあって贖われました」と告白します。しかし、本当に「キリストにあって覆われて」いるでしょうか。日々「キリストを着て」いるでしょうか。
ラオディキアの「黒いウール」はとても人気があったようです。
「流行りの服」を人々は着ていました。裕福なラオディキアの人々は「服にお金をかける」ことが容易にできたでしょう。
新しい服、流行の服は、人々の心を躍らせます。みな「素敵な服が欲しい」と思います。
その昔、アカンの心を惑わせたのも「シンアルの美しい外套」でした。
「シンアル」とは「バビロン」のことです。アカンは、当時の「最新流行のコート」の魅力に負けたのです。
「外套」と「いくらかの金銀」がアカンの心を惑わし、彼は所有物もろとも石打ちとされたのです。
イザヤの時代の「エルサレムの娘たち」も身なりに気を配っていたようです。
シオンの娘とは「エルサレムの人々のこと」です。この場合は特に、エルサレムの女性たちに言及されているようです。
彼女たちは「おしゃれ」を楽しんでいました。耳輪、腕輪、飾り帯、指輪、外套、財布など、美しい物、華やかな物を身に着けていました。今の女性たちと同じです。
ただ、彼女たちの身に着けていたものには「オカルト的なもの」が多かったと思えます。(これは、また別のテーマですから今回は深入りはしません)
彼女たちは「首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小股で」歩いていました。これは明らかに「人目を気にして」「見られるのを意識して」歩いていたと言えるでしょう。
主は彼女たちを「高慢だ」と言われました。
そして、高慢な者が行きつく先は常に「滅び」です。
私は「衣服」にお金をかけることは「罪悪だ」などと言いたいのではありません。
好きなものを着ればよいと思います。楽しんで着ればよいとも思います。
主が「装い」にさえ気を配ってくださることは「野の花」を見ればわかります。
ただ「追い求めて」はなりません。主が「与えてくださる」ものを楽しめばよいのです。
主は、私たちの「装い」に気を配ってくださいます。それは、確かです。しかし、もっと大切にしておられることがあるのも確かです。
「神の御前で価値のあるもの」があるのです。
ラオディキアの教会は「神の御前で価値のあるもの」を持っていませんでした。
彼らは「特産品のウール」で着飾っていましたが、神の御前には「裸」でした。彼らの「裸の恥」は「覆われて」はいなかったのです。
彼らは「実は裸であることを知らない」人々でした。自分の本当の姿を知らない人こそ「みじめな人」です。
彼らには「キリストの覆い」が必要だったのです。
白い衣を買いなさいと言われます
黙示録には「白い衣」を着た人々が登場します。
使徒ヨハネは「多くの群衆」を見ました。
この数えきれない群衆については、また黙示録7章で学びます。
今は、彼らが「白い衣を身にまとっている」ことに注目しましょう。
この「白い衣」について長老の一人が説明してくれています。
群衆の「白い衣」は「子羊の血で白くした衣」です。
私たちは、みな「白い衣」を身にまとわなければ「神の御座」に近づくことはできません。
白い衣を着た群衆が何をしているのかを黙示録は記しています。
「子羊の血で白くした衣」を身にまとう人々は「その神殿で神に仕える」ことができるのです。
「子羊の血で白くした衣」こそ「神の国の礼服」です。王の御前に行くには「礼服」を着ていなければなりません。
イエス様は「礼服についてのたとえ」を話しておられます。
婚礼の礼服を着ていない人が一人いたのです。
ここで王様が彼に「友よ」と呼びかけていることを覚えてください。
彼は「王の友」です。顔見知りなのでしょう。それで「甘えていて」礼服なしで婚礼に参加できると思ったのかもしれません。もしかすると「礼服」より「もっと素晴らしい自前の服」を着ていたのかもしれません。
しかし、王様は言いました。
「友」と呼ばれていても「礼服」を着ていなければ放り出されます。「自慢の服」を着ていてもダメです。
「礼服」以外は「裸」と同じです。いえ、もしかすると私たちの「自慢の服」は、主の御前には「裸」以上に不快なものであるかもしれません。
私たちの「行い」によって、御前に出ることは決してできません。それがどれほど「善いこと」であっても、どれだけ「犠牲」を払ったとしても「自分の義」では救われません。
私たちが「素晴らしい服だ」と誇りに思っていても、それは主の御目には、ただの「不潔な衣」です。
私たちには「白い衣」が必要不可欠です。「子羊の血で現れた白い衣」だけが御前に受け入れられる「礼服」なのです。
こう考えると、イエス様はラオディキアの教会を招いておられるのではと思えます。主は、ラオディキアの聖徒たちに「御前で仕えてもらいたい」と願っておられるようです。だからこそ「白い衣」を買いなさいと忠告しておられるのでしょう。
ラオディキアの教会は「足りないものは何もない」と言っていました。彼らは「神に仕える」ことに対しても「足りないことはない」と思っていたでしょう。しかし、彼らは、主の御前で「裸」でした。
十分に「できている」と思っている「教会活動」が、実は、主の御前には「何もない」と言われるものであったということです。
「白い衣」を買いなさいとイエス様は言われます。
主が受け入れられるのは、常に「カインの作物のささげ物」ではなく、「アベルの羊の初子」です。
必要なのは「自分が良いともうささげ物」ではなく「神のよしとされるささげ物」です。
婚礼に招かれたのなら「自分の最善と思う服」ではなく「礼服」を着て行かねばなりません。
神に仕えたいと思うなら「裸」で近づいてはなりません。イエス様の「白い衣」を身に着けて御前に出なければならないのです。
イエス様の救いは完全です
さて、少し話はそれますが、大事なことなのでしばらく「白さ」について考えてみたいと思います。
もう一度、子羊の血が「何を成した」のかを見ましょう。
子羊の血は「衣を白く」します。
私たちが着る「白い衣」も、主イエスの「白い衣」のように輝く白さであると、私は信じています。
その「白さ」は「この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さ」です。
「この世の人」には、誰もこの衣を「白く輝かせる」ことはできないのです。どんなに腕のよい職人さんにも無理なのです。
神の「聖なる白さ」を生み出すのは、ただ「子羊の血」のみです。
ある姉妹が言っていたことを時々思い出します。
「罪を犯しても血によって赦される。白くされる。けれど、ノートに書いた文字を消しゴムで消しても、消したあとがうっすら残るように、私も新品のノートには戻れない。まったく罪を犯したことのない人と、私とは白さの種類が違う。」
ああ、今、彼女に会えたならと思います。
「そんなことはないのだ」と大きな声で言ってあげたいのです。
あの時は、うまく説明できなかったけれど、今なら「それはあり得ない」とはっきり言うことができます。
愛する兄弟、愛する姉妹。
あなたは「消しあとのついたノート」ではありません。あなたは「新品のノート」です。
あなたの衣は「新しい衣」です。あなたは「新しく造られた者」なのです。
「古いものは過ぎ去り」ました。
あなたは「犯してしまった罪はなかったことにできない。傷あとが残っているじゃないか」と言うかもしれません。
「窓ガラスを割った罪は赦される。けれど、割れた破片の処理はしなければならない」という言葉を聞いたことがあります。
つまり「罪」は赦されるけれど「罪の結果」は負う必要があるということです。
もっともらしく聞こえますが、これは「大きな誤り」であると私は声を大にして言いたいのです。実は、若いころ私もこの言葉を教えたことがあるのです。
自分の犯した罪の結果、嫌な目に会ったり、辛いことを我慢することは多少なりとも仕方がないと思っていたわけです。
イエス様の救いを「中途半端」に受け取ることこそ罪です。
御父が「御子の血によって」あなたを買い取られたのです。
「あなた自身は買い取った。けれど、今までのことは自分で解決しなさい。それだけのことをしたのだから償いはするべきだ。天国には行けるのだから、傷ついた自分のことは受け入れなさい」
御父が、あなたにそんなふうに言われると思いますか?
もし、あなたに「傷がある」ならば「神へのささげ物」にふさわしくはないのです。
「ささげ物」はみな「傷のないもの」でなければならないからです。
「良きサマリア人」が何をしたか見てください。
イエス様は「良きサマリア人」以上の方です。「傷」を見て放っておくことなどされません。
あなたの「古傷」は時々痛むのでしょう。
過去が追い迫って来るように感じることが私にもあります。自分の犯した罪に押しつぶされそうになることもあります。また、誰かの言葉によって「刺された傷」がうずくように感じることもあります。
主は、それを「罪の結果だ。仕方がない」と言って、私たちに「我慢を強いる方」でしょうか。
いいえ。主は、私たちの「傷」を見過ごしにされる方ではありません。
むしろ「どこが痛むのか。傷を見せなさい」と言ってくださるでしょう。そして「油」と「ぶどう酒」で治療してくださいます。
覚えてください。
主の「治療」は完全です。完璧です。あなたは「傷もなく、しみもない」という状態になります。なぜなら、イエス様は「新しく」することがお出来になるからです。
この世の医者は「傷を治し」ますが、主イエスは「傷をなかったことに」されます。
「どこに傷があったのかしら」と思うほど美しくされます。
イエス様の「救い」は「すべて」に及ぶことを信じてください。
「過去・現在・未来」のすべてが贖われたのです。あなたの「霊」だけではなく「たましい」も「からだ」も贖われたのです。
「消したあと」なんて残りません。
あなたの「白い衣の輝き」が、他の聖徒の「輝きに劣る」などということはありません。
「過去」には死ぬのです。それが「一分前の過去」であっても「過ぎ去ったもの」です。
私たちは、常に「新しい今」に生かされています。
そうは思っても「傷」は痛むし、実際に「傷あと」もあるという人もいるでしょう。
愛する兄弟姉妹。
そうであるならば、一緒に、主のもとに行きましょう。
主はあなたに「包帯」をしてくださいます。油とぶどう酒をたっぷりと注いで「おおって」くださいます。
巻かれた「包帯」を外して「傷がどうなっているのか」を見続けてはなりません。
「包帯」を外さず、ただ「主治医であるイエス様」を見続けなさい。
時々、傷が痛んでも「包帯」を外してはなりません。すぐに「主治医」のところに走りなさい。
そうすれば、いつの日か、傷が痛まなくなったころ、主が「包帯」を外してくださいます。
あなたは、きっと驚きます。
そこに「傷あと」は、もはやないでしょう。
私たちは、イエス様の「完全な救い」に入れられました。主を信じましょう。主の御業が完成していることを褒めたたえましょう。
御父は「世界の基の据えられる前から」あなたを選んでおられました。
主のみこころは必ず成ります。主が「しようとされた」のですから、私たちは必ず「聖なる、傷のない者」とされます。
あなたは「聖なる、傷のない者」です。
あなたの衣は、世の職人の手によっては「白く輝き」ません。
「子羊の血で白くされた衣」だけが、主の御前にあなたを輝かせるのです。
裸の恥をあらわにしないために
さて、かなり長い脱線でしたね。脱線が本論のようになってしまいましたが、まとめに入りましょう(笑)
ラオディキアの教会に「白い衣」が必要な理由は「裸の恥をあらわにしないため」でした。
つまり、言い換えると、ラオディキアの教会は「裸の恥」をあらわにして歩んでいたということです。
自分でそれに気がつかないなら「裸のまま」でしょう。昔話の「はだかの王様」と同じです。
ほかの人は「分かっている」のに、自分だけが「分かっていない」のです。それほど「恥ずかしい」ことはありません。
ラオディキアの教会は「自分たちが裸であること」を知りませんでした。
彼らは「服を着ているつもり」であったからです。
これは、よく考えるべきことですね。
私は「白い衣」を着ているでしょうか。それとも「着ているつもり」でしょうか。
私は「神に仕えている」のでしょうか、それとも「仕えているつもり」なのでしょうか。
「子羊の血で白くされた衣」でなければ意味がないのです。
主は、自分で着飾れる人をお選びにはなりません。自分で「できる」という人をお選びにはならないのです。
それは、神の御前で「誰をも誇らせないため」です。
イエス様は、私たちの「義と聖と贖い」です。
そして、それこそ「白い衣」です。
キリストを着ずに行うすべてのことは「肉に心を用いること」です。
それが「よい行い」であり「素晴らしく効果的な行い」であったとしてもです。
それらは「自己満足の行い」です。私たちの「肉を満足させる」ためのものです。
誤解を招く言い方かもしれませんが、主なる神は「よい行い」を求めてはおられません。
主は「みこころを行う人」を求めておられるのです。
イエス様の御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行っても「キリストを着ていない」ならば「わたしは、あなたを知らない」と言われるのです。
この世において「どれだけ用いられているように見えるか」は、神の国の判断基準ではありません。神に知られているのは「子羊の血で白くされた衣」を着ている聖徒です。
「キリストを着なさい」と聖書は言います。
「何を行うか」より「誰と行うか」の方が大切なのです。
「こんな普通のこと」「それほど重要とは思えない」とあなたが思うすべてのことを「キリストを着て」行うなら、それが「神のみこころ」を生きることです。
「子羊の血で白くされた衣」を求めましょう。
「血」が、私たちの良心をきよめるのです。
「血」が、私たちを生ける神に仕える者とするのです。
私たちの「意志の力」や「努力」は、私たちをきよめません。仕える者ともしません。
ただ「子羊イエスの尊い血」だけが、私たちの衣を白くするのです。
イエス様の「血」の力を信じることです。
イエス様の「血」の力を褒めたたえることです。
主イエスの血潮によって「きよめられた」ことを信じましょう。
私たちの「裸の恥」を隠すために必要なのは「子羊の血によって白くされた衣」だけです。
祝福を祈ります。