No.387 神の武具② 胸には正義の胸当てをつけます

蜂と花

エペソ6:14c
胸には正義の胸当てを着け、

神が義と認めてくださったのです

ローマ兵の胸当ては、兵士の心臓を守る大切な武具です。

神の武具においても、胸当ては「心」を守るために装着します。

私たちの「心」を守る胸当てとは「正義」であるとパウロは言います。

私たちは、敵に心を射抜かれないために「正義の胸当て」をつけなければなりません。

覚えてください。

敵は、私たちの過去を責め立ててきます。

それは「1分前」のことかもしれません。または「10年前」のことかもしれません。

「おまえは、今さっき、嘘をついたじゃないか」と敵は言います。

「おまえは、昔、あんなことをしたじゃないか。今さら神のために働けるのものか」などとも言います。

敵の声が「心」に入ると、私たちは罪悪感で押しつぶされそうになります。そうして、心はシナシナになって、結局、神の働きなんて「自分には無理だ」と諦めてしまうのです。

箴言4:23
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。

「いのちの泉」が「心」から湧くことを、敵たちは知っているのです。

そして、恐らく、あなたよりも熱心に「あなたの心」を見張っています。あなたが元気になって「イキイキ」と過ごすことができないように、熱心に「心」を攻撃してくるのです。

「神の義」を胸当てとしてつけましょう。

ローマ4:25
主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。

イエス様の死によって、私の罪は「過去の罪」も「現在の罪」も「未来の罪」も贖われました。

主イエスが「死に渡された」ので、私たちの罪は取り去れたのです。

そして、罪を完全に葬り去られたイエス様は「よみがえられ」ました。私たちは、イエス様の復活により「義と認められた」のです。

誰にも「文句」のつけようがないと聖書は主張しているのです。

ローマ8:33
だれが、神に選ばれた者を訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

誰も私を「訴える」ことはできません。誰が「主イエスの死と復活」を否定できるでしょう。

あなた自身も「あなた」を責めることはできません。

悪しき者は「責める正当な理由がある」と主張するでしょうが、それは「偽り」です。

「神が義と認めてくださった」のです。だれがそれに反対できますか。

ローマ8:1
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

ですから、もし、あなたの心が「罪悪感」で痛くなったのなら、立ち上がって宣言するのです。

「誰が私を訴えるのか。神が私を義と認めてくださっている。私は、イエス様のうちにある者だ。決して罪に定められることはない。イエス・キリストの御名によって命じる。罪悪感をもたらす者よ、立ち去れ」

私たちは「自分の義」では戦うことはできません。

「自分の義」など「武具」にはなり得ません。それはただの「不潔な着物」にすぎません。

必要なのは「神が義と認めてくださった」という「事実」だけです。

ローマ8:31
では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

主なる神は「私の味方」です。

「神の義」を胸当てとしましょう。自信をもって、恐れずに歩みましょう。

「神が義と認めてくださっている」という告白に歩むことこそ「正義の胸当て」を身に着けることです。

私はキリスト・イエスのうちにある者です
神が義と認めてくださいました
神が私の味方です