黙示録3:18
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。
イエス様は忠告される方です。
前回は、ラオディキアの教会に対する「非難のことば」から学びました。
イエス様は、ラオディキアの教会に「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもない」と言われました。
今回は、そのようなラオディキアの教会に対する「忠告のことば」を学びたいと思います。
イエス様は、ラオディキアの教会に「忠告」されます。
ラオディキアの教会は、確かに「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」状態でしたが、まだ改善の余地はあるのです。主は、彼らが「熱心になる」ことを望んでおられます。まだ「あきらめて」はおられないのです。
イエス様は、ラオディキアの「本当の姿」を明らかにされました。彼らは「自分が思っているような者」ではありませんでした。
イエス様にあって「本当の姿」が明らかにされることは、常に幸いなことです。
主は「真理」を明らかにされます。そして「真理」を知るならば、私たちは「自由」になります。
「真理のみことば」にとどまるのなら、私たちは「自由」とされます。
ラオディキアの教会は、自分たちの姿を「みことば」によって判別する必要がありました。
ラオディキアの教会は、今、試されているのです。
主イエスの「忠告」すなわち「真理のみことば」を聞いてとどまるのか、それとも無視するのか、彼らは決断しなければなりません。
主は「忠告」してくださる方です。
カインにも「忠告」されました。アベルのいのちを奪うという大罪を犯して、主から離れて行くことがないようにと、あらかじめ語られました。
荒野では、モーセを通して「忠告」し続けておられました。主は、ずっと「イスラエルの真ん中にとどまっていたい」と望まれたからです。しかし、彼らは、主に逆らいました。
みことばを聞いても「益にならない」ということはあるのです。
みことばを滑り落してしまうことは「可能」なのです。
聞いたみことばは「結びつける」必要があります。みことばは「信仰」によって結びつけなければ「地に落ちて敵に奪われる」ことになるのです。
ラオディキアの教会は、主の「忠告」を信仰によって受け取らなければなりません。
つまり、自分たちの「本当の姿」を受け入れ悔い改めることです。そして、主の「みこころの姿」を追い求めることです。
ラオディキアの教会は「終わりの時代の教会の姿」です。
ゆえに、私たちもまた、主からの「忠告」を心に留めなければなりません。
自分たちだけで王様になってしまいました
さて、もう一度、イエス様の忠告を読みましょう。
イエス様は、ラオディキアの教会に「三つのもの」を買うようにと言われました。
「金」と「衣服」と「目薬」です。今回は、このうちの「金」について学びます。次回、残りの二つ「衣服」と「目薬」について学ぶ予定です。
さて、これら3つは、ラオディキアの「得意分野」です。主は、あえて「ラオディキアが誇るもの」にチャレンジされたのだと思います。
ラオディキアの町は、特に「金融」「織物産業」「薬」の町として有名でした。主は、彼らが理解しやすいように「彼らの誇るもの」を用いて語られます。
まず、この町は「金融の中心地」として有名でした。「豊かな商業の町」です。金貨がいっぱいあったわけです。
その豊かさは、紀元六〇年の大地震の際には、帝国からの援助を断って、自力で町を再建したほどです。自信と誇りに満ちた町、ラオディキアです。
黙示録の七つの教会への手紙 柴田敏彦著 いのちのことば社
ラオディキアは「自立自尊の町」などと呼ばれます。
紀元後60年の地震の話は象徴的だと思います。彼らは、当時のローマ皇帝ティベリウスの復興援助を断わりました。「自分たちだけでできるので大丈夫です」と言ったのです。
この町の態度と「教会の態度」は同じものでした。ラオディキアの教会も「自立自尊」であったのです。
ラオディキアの教会は「自分たちは富んでいる。豊かになった。足りないものは何もない」と言っていました。
教会が「世の中」に頼らないことは立派でしょう。
しかし、教会が「イエス様」に頼らなくなったとしたら、それはもはや「教会ではない」のです。
ラオディキアの教会は「自分たちで何でもできた」のです。
美しい礼拝堂を建てることもできました。貧しい人たちへの施しもできました。教会員たちの必要を満たすこともできたのだろうと思います。もちろん、伝道集会も開けますし、宣教師への支援もできたのでしょう。
「足りないものは何もない」のです。
これは、パウロが「コリントの教会」に対して書き送ったことばです。
コリントの教会は「豊かに御霊の賜物のあふれた教会」でした。彼らは「見かけ重視」でした。ですから、立派な身なりをした「偽使徒」に騙されてしまうのです。彼らは「肉の人」であって、教会には「不道徳」が蔓延していました。
しかし、ラオディキアの教会は違います。ラオディキアの教会には「目立った罪」はありません。彼らは「素晴らしい教会」です。しかし、本質的にはコリント教会と同じでした。「目立った罪」という言い方が正解かどうかは分かりませんが、とにかく、彼らは「罪の自覚」が難しい状態であったと言いたいわけです。
ラオディキアの教会も「自分たちだけで王様」になっていたのです。
教会が「自分たちだけで王様」になったなら、それは「頭」のない「身体」という不気味な存在でしかありません。
ラオディキアの教会は「目に見える豊かさ」こそ「祝福の証拠」であると思っていたのです。
コリントの教会は「御霊の現れ」こそ「霊的な証拠」であると思っていました。
どちらの教会も「見えるところ」で「祝福を量る」という愚かな間違いを犯しているのです。
本当に豊かな者とは、どのような人のことでしょう
パウロがコリントの教会に語ったことを、もう少し読んでみましょう。
この聖句を読むたび「そこまで言わなくても」と思ってしまいます。
「この世の屑、あらゆるものの、かす」なんて、心が痛くてたまりません。
しかし、そのように言いつつも、パウロはコリントの聖徒たちに勧めて言うのです。
これは「この世の屑、かす」となれという意味でしょうか?
もちろん違います。パウロは、自分と「同じ苦労をせよ」と言っているのではありません。
ただ「見えるところによって生きるな」と言っているのです。
コリントの人たちは、パウロを「見た目」で判断していました。パウロのことを「一緒にいるときはおとなしいのに、離れていると強気になる」などと言っていたのです。
コリントの人々にとって「みすぼらしい恰好」のパウロは「使徒らしくない」と思えたのでしょう。本当に、神に選ばれた「使徒」であるならば、どうして「そんなに弱々しく見えるのか」と首をかしげているのです。
そのようなコリントの人々にパウロは言うのです。
「私に倣う者となってください」と。
パウロは「私に倣う者となってください」と言います。そのパウロの倣う方は「主イエス」です。
私たちは、人としてのイエス様がどのように歩まれたのかを福音書によって知ることができます。
イエス様は、確かに「貧しく」なられました。衣服さえもはぎとられ、何も持たずに十字架に架けられました。
十字架で、イエス様は誰よりも貧しくなられました。
しかし、地上を生きておられたときには「富んでおられた」と私は思います。御父との交わりが断たれる前には「満ち満ちて」おられたはずです。
主イエスは、世の中の人々から見れば「お金持ち」ではありませんでした。しかし「乏しい」ことは決してなかったでしょう。
確かにイエス様は、何も所有しておられませんでした。枕する場所もないと言われました。
しかし、それでも、この方は「5000人」を満腹にすることがおできになりました。彼らは食べて満腹になりました。しかも「パンはあり余った」のです。
すべてを「御父からの供給」で賄っておられたので「足りないことがなかった」どころか「あり余らせる」ことがお出来になったのです。
「受けるより、与える方が幸いである」を実行して生きられました。
これが「豊かな人生」「満ち足りた人生」です。
イエス様は「日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈るように教えてくださいました。
それは「日々、御父に頼って生きよ」ということです。
見えるもの、所有しているものは「祝福のバロメーター」にはなりません。
私たちの神様は「石ころからでもアブラハムの子孫を起こす」ことのできる方です。「無いものを有るもののように呼ばれる方」です。「千の丘と万の家畜」を持っておられ「金はわたしのもの、銀もわたしのもの」と言われる方なのです。
私たちは、このような方を「御父」とお呼びしているのです。
「見えるところ」は、何も所有していなくても「貧しい」わけではありません。
「ひどい扱い」を受けたとしても「見捨てられた」わけではありません。
「弱い」ように見えても「敗北」はしません。
「持っていない」ことよりも、もっと恐ろしいのは「足りないものなどない」という心です。
「渇き」を覚えないならば「生ける水」を飲もうとはしないでしょう。
「空の器」がなければ「油の満たし」は止まります。
ラオディキアの教会が「実は、みじめで哀れで貧しい」と言われるのは、そこに「聖霊の満たし」がないからです。彼らへの「供給」は止まっているのです。彼らの「富」は「地上のもの」です。それは「後の世」においては、まったく無価値です。
私たちは、主イエスの歩みに学びましょう。また、パウロに倣う者となりましょう。
このように告白できる人こそ、本当に豊かな人なのです。
火で精錬された金をわたしから買いなさいと言われます
イエス様は、ラオディキアの教会に「豊かな者」となって欲しいと望まれます。
「永遠に続く豊かさ」の中で生きて欲しいと望んでおられるのです。
イエス様は「豊かないのち」を与えてくださる方です。
主は、あなたに「豊かないのち」を得させるために来られました。
イエス様は言われます。
ラオディキアの教会は、主が与えてくださる「豊かないのち」を拒んで、自分たちの思う「豊かさ」に夢中でした。
彼らの人生に「信仰の行い」は必要ありませんでした。彼らは「自分にできること」をいつものように行って生きているだけです。それでも十分に行えたのです。
もしあなたが、「神が、自分をどこへどう導くかは分かっている」と思っておられるのでしたら、必ず味わう失望に備えていてください。神の計画は、神に頼らねばならないという私たちの必要を否定するような形では、決して現わされません。
神の声を聞く五つの秘訣 ダニエル・コレンダ著 マルコーシュ・パブリケーション
ラオディキアの教会は「自分たちの道は分かっている」と考えていたと思います。
礼拝も、奉仕も「滞りなく」行っていました。すべて「計画どおり」に行うことができたのです。彼らには、その力がありました。
しかし、覚えてください。
「神の計画は、神に頼らねばならないという私たちの必要を否定するような形では、決して現わされません」
つまり、私たちが「みこころ」に歩んでいるならば、必ず「信仰」が必要だということです。
「信仰」が必要のない計画は、それが本当に「神からのものかどうか」と疑った方がいいでしょう。
ラオディキアの教会に必要なのは「火で精錬された金」です。それは「不純物を取り除いた金」ということです。
私たちは「信仰」によって生きていると言います。
けれど、実際には「信仰」に「何かを付け足して」生きています。
「主を信じます」と言いつつも、純粋に「信仰」だけで生きることなど「不可能だ」と思ってしまいます。
「信仰」は、心の安定のために必要だ、しかし、生きていくためには「それ以上のもの」が必要だと考えてしまうのです。
しかし、私たちは「二人の主人」に仕えることはできないのです。「神と富とに仕える」ことはできません。
主は、ご自身の王座を「誰かと」もしくは「何かと」共有されることは決してありません。
ラオディキアの教会の姿は、私たち「世の終わりの教会の姿」です。
私たちは「不純物」を取り除かなければなりません。
「主よ、あなたから精錬された金を買いたいのです」と祈るなら、主はその祈りに答えてくださるでしょう。
その時には、私たちの「信仰」が試されることになりますが、恐れないでいましょう。
終わりの時に最も必要なのは「純粋な信仰」です。見えないものを見るための「信仰」です。見えるものに揺さぶられない「信仰」です。主イエスだけを見続ける「信仰」です。
「試練で試された信仰」こそ「称賛と栄光と誉れ」をもたらすものです。
「自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もない」と言っていたラオディキアの教会は「実はみじめで、哀れで、貧しい」教会でした。
彼らには「純粋な信仰」がなかったからです。イエス様だけに頼る「信仰」がなかったからです。
必要なのは「火で精錬された純粋な金」です。
信仰によって試された「純粋な信仰」です。
イエス様の忠告を心に留めましょう。信仰によって「心に結びつけ」ましょう。
次回も引き続き、イエス様の忠告を学びます。
祝福を祈ります。