詩篇34:1
私はあらゆるときに 主をほめたたえる。私の口には いつも主への賛美がある。
あらゆるときとは惨めな気分の時もということです
詩篇34篇は、ダビデがガテの王アキシュのもとから追われたときのものです。
ダビデは、サウルのもとを逃げ出し、ガテの王に助けを求めます。しかし、ガテの王の家来たちの言葉を恐れたダビデは「気が変になったふりをして」その場から逃げだしました。
「私はあらゆるときに 主をほめたたえる」という言葉に、私はダビデの決意を感じます。
これは、ただ「アキシュのもとから無事に逃げられてよかった」ということではないと思います。
確かに、主はダビデを助けてくださいました。しかし、ダビデの心は複雑であっただろうと思うのです。
アキシュ王のもとへ来た時、ダビデは「平安」ではなく「恐れ」に満たされます。ここは彼の「隠れ場」ではありませんでした。
「気がおかしくなったふり」をダビデはうまくやりました。アキシュたちは「ダビデに似た別の人」だと思い込みました。これは、ダビデを褒めるべきでしょうか。
おそらく、ダビデの心は「屈辱」でいっぱいだったのではないかと思います。助かったことは嬉しいけれど、それでも「自分のしたこと」を考えると、手放しでは喜べない、そんな心境ではなかったかと思うのです。
「なぜ、こんなことになったのか」と考えたことでしょう。
サムエルに油注がれて、王の婿となって、多くの敵と戦い勝利を収めてきました。しかし、今は「逃亡者」です。しかも「気がおかしくなったふり」をして、命からがら逃げだした惨めな逃亡者です。
「勇者ダビデ」はどこにいってしまったのでしょう。ゴリヤテに一人で立ち向かった少年ダビデは消えてしまったのでしょうか。
ここには「勇者ダビデ」の姿はありません。自分の尊厳を失ったひとりの人を見るだけです。彼は「何者」でもない逃亡者です。地位どころか、明日、食べるパンさえ持っていない逃亡者なのです。
しかし、ダビデが失っていないものが一つだけありました。
「勇者」でも「将軍」でもありません。すべての「地位」を失いました。
しかし、ダビデは「礼拝者」であり続けたのです。
尊厳を失っても、惨めな気持ちでも、嘆くしかない状況であっても、それでも「あらゆるときに、主をほめたたえる」のです。
ダビデは「自分を誇る」ことはできませんでした。自分の行動は「褒められたものではない」と分かっていました。ダビデの誇りはただ「主ご自身」だけでした。
賛美とは「選択」です。
「あらゆるときに、主をほめたたえる」という決断です。
そして、それこそが「勝利」なのです。私たちは「礼拝者」が「王」になることをダビデによって知っています。
今日、ダビデの招きに応じましょう。
私も「あらゆるときに、主をほめたたえる」と決断します。
主よ、あらゆるときに、あなたをほめたたえます
主よ、私のたましいは、あなたを誇ります
私は、ただ礼拝者でありたいのです