Ⅱペテロ1:2
神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
恵みと平安なのです
「恵みと平安がますます豊かに与えられますように」とペテロは言っています。
ペテロだけでなく、パウロもヨハネも、使徒たちはみな、同じ言葉であいさつを書き送っています。
常に順番は「恵みと平安」です。これが正しい順番で、決して「平安と恵み」にはなりません。
ある人は「恵みと平安は双子の兄弟だ。兄が恵みで弟が平安」と言いました。確かに、その通りなのです。
常に「恵み」が先なのです。
「平安」は、御霊の実です。私たちは「平安」の実を結ぶことができます。
しかし「恵み」は「実」ではありません。私たちは「恵み」の実を結ぶことはできません。
私たちは、キリストによって恵みに導き入れられました。私たちは、恵みの上に立っているのです。
つまり、私たちの「土台」は恵みであるということです。
もし、私たちが「恵み」に立たず、その他のものを土台としているならば、本当の「平安」を持つことはできません。
キリスト・イエスによる恵みのほかに、私たちが立つところなど何もないのです。
あなたが「自分の義」「よい行い」の上に立っているならば、あなたの心は「常に責め立てられる」ことになるでしょう。
聖書を読み、祈りの時を持ち、他の人に親切にし、愛を持って接することができたなら、私は「自分を愛すること」が容易にできます。
しかし、寝坊して祈りの時間が持てず、イライラして前の車の運転に悪態をつき、自分勝手な態度を取るならば、私は「自分を愛すること」が難しくなります。というより、そんな自分は嫌いです。そのような自分を見るたびに、心から「平安」が失われていくのです。
そして、神様も「こんな私」を愛することはお出来にならないだろうと思ってしまうのです。
しかし「恵み」とは「価値のない者に与えられるもの」です。
「こんな私」に注がれるのが「恵み」なのです。
あなたが「今の私を神様は受け入れて下さらないだろうな」と考えるとき、そこに注がれるのが「恵み」なのです。
「こんな私」と思うたびに「恵みが満ちあふれる」ことを私たちは知ります。「こんな私」が「恵み」に導き入れられていることを知るのです。
主の恵みは「高く」「大きく」「深く」「豊か」です。
ペテロは言います。
「恵みと平安」は、「神と、私たちの主イエスを知ることによって」ますます豊かに与えられるのです。
主は「恵みの上にさらに恵み」を与えてくださる方です。イエス様は「恵みとまこと」を実現された方です。
主が恵み深い方であることを知ってください。
私たちが立っているのは「恵みの上」であることを覚えてください。
あなたが「恵み」を深く知るなら、かならず「平安」が伴います。
あなたの上に「恵みと平安」が豊かにありますように。
主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで
主よ、あなたの恵みに導き入れられたことを感謝します
私には超自然の平安が伴います