詩篇131:2
まことに私は 私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように 乳離れした子のように 私のたましいは私とともにあります。
わからないことには深入りしない方がいいのです
ダビデは、とても神様と親しい人でした。彼は「神に愛された者」と呼ばれます。
しかし、そんなダビデでも「理解できないこと」「釈然としないこと」はあったのです。
ダビデは言います。
「及びもつかない大きなことや奇しいことに私は足を踏み入れません」
これは、奇跡を期待しないとか、神様に大いなることを求めないとか、そのようなことを言っているのではありません。
ダビデは「自分には理解できないことを、あれこれ詮索しません」と言っているのです。
私には、世界中で起こっていることも、身近で起こっていることも、すべてを把握し理解することはできません。
「なぜ?」とか「どうして?」という問いが、いつも頭の中にあるのは事実です。すべてのことが、主の御手の中にあると信じているつもりだけれど、それでも混乱してしまうことがあります。
そのようなとき、私はこの詩篇を読みます。
何が起こっているのか理解できなくて、混乱しているのなら、まずは「たましいを和らげ静め」ることです。
「和らげ」と訳されている語は「平らにする」「沈黙させる」「静める」という意味です。どちらかというと「待つ」という意味を含んでいるようです。
「静め」と訳されている語は「静かにさせる」「穏やかにする」という意味です。
似たような意味の単語を続けて用いるのは、その意味を「強調」したいからです。
ダビデは「理解できないことに出会ったなら、とにかく、何を置いても静まることが大切だ」と言いたいのです。
私は「私のたましい」を和らげ静めなければなりません。
「私のたましい」を静かにさせるのは「私の霊」です。
内なる人を奮い立たせて、私は「私のたましい」に言います。
「我がたましいよ、理解できないことは罪ではない。知る必要のないこともあるのだ。お前に必要なのは、理解することではない。その出来事を支配しておられる方を信じることだ」
「乳飲み子」であれば、言い聞かせたとしても静かにさせるのは難しいでしょう。
しかし「乳離れした子」は違います。「乳離れした子」は、たとえすべてを理解できなくても、言い聞かせれば静かにできるのです。
「乳離れした子のように 私のたましいは私とともにあります」とダビデは言いました。
ダビデの「たましい」は、ダビデの霊とともに「静まって」御前にいるのです。
あなたの「たましい」が騒ぎ立てるのを放っておいてはなりません。
「なぜ」「どうして」「納得できない」「意味がわからない」とわめきたてる「私のたましい」を静めるのは、私の役目です。
我がたましいよ、理解できない大きなことを考えるのはやめよ。
我がたましいよ、今よりとこしえまで、主を待ち望め。
我がたましいよ、和らぎ静まれ
我がたましいよ、主に信頼せよ
主よ、私はあなたを待ち望みます