箴言20:27
人間の息は主のともしび。腹の奥まで探り出す。
人の霊が「ともしび」なのです
私たちが「霊・たましい・からだ」を持っていることは明らかです。
「神は霊です」とイエス様は言われました。そして、私たちは「いのちの息」を吹き入れられて「神の似姿」に造られたのですから「霊的な存在」であることに間違いありません。
しかし、私は、自分が「霊的な存在」であることを時々忘れてしまうようです。
腰が痛いだとか、お腹がすいたとかいう「からだ」の声は良く聞こえますし、すぐに反応します。
また、嫌だ、怖い、面倒くさいなどという「気持ち」に大いに左右されます。
けれど「霊」つまり「内なる人」の声には、どれほど耳を傾けているだろうかと思うのです。
「人間の息」とは、別訳では「人間の霊」です。
つまり「人の霊」が「神のともしび」だと聖書は言っているのです。
「ともしび」とは、辞書によると「明かりとする火のこと」です。
「ともしび」とは、暗い場所を照らすものです。周囲を明るく照らすものです。
私たちの「霊」は、神様が「ともしび」として用いられるものなのです。
主は、私を「霊」によって照らし、見えるようにされるのです。
つまり、主は私を「霊によって導かれる」ということです。
私たちは「からだ」に導かれるようには造られていません。「肉」に従うなら「滅びる」でしょう。
私たちは「たましい」に導かれるように造られてもいません。「人の心は何よりもねじ曲がっている」と聖書に書いてあります。
神の子どもは、みな「御霊」に導かれます。
「御霊」は、私たちの「霊」を導かれます。私たちの「たましい」ではなく「霊」が「御霊」と一つにされているからです。
新たにされるのは「内なる人」です。外なる人は衰えます。
大能の力によって強くされるのは「内なる人」なのです。
そして、その「内なる人」とは、私たちの「霊」のことなのです。
私たちは「霊的な存在」です。「霊」によって生きています。
私は「霊的な存在」です。「たましい」を持っていて「からだ」を支配しています。
私は、時々「からだ」に支配されてしまいますが、パウロのように「からだをうち叩いて服従させ」たいと思います。
私は、時々、「心のまま」に生きようとしてしまいますが、イエス様のように「私の望みではなく、あなたの望まれるままになさってください」と献げて歩みたいのです。
そのためには「霊が神のともしび」なのだということを常に認識していなければなりません。
主のみこころを知りたいのなら「霊」によって照らされる必要があるのです。
あなたの「霊」が御霊に導かれることを信じなさい。
あなたの「内なる人」が御霊によって強くされるように求めなさい。
私たちは「霊であること」を意識して歩みましょう。
私たちの「霊」は、常に「御霊」とともにあるのです。
私は「霊的存在」で御霊に導かれます
私は「たましい」を持っています
私は「肉」に従いません