No.366 信仰の告白は、日々の「信頼」から紡ぎだされます

山を歩く

創世記22:14
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

主が備えてくださるのだと言いました

創世記22:8
アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。

やっとの思いで絞りだした答えだったのか、それとも咄嗟に思わず出た言葉だったのか、御国でアブラハムに会ったときに聞いてみたいと思います。

どちらにせよ、これがアブラハムの「信仰のことば」であったことに間違いはありません。

私たちは「信仰のことば」とは、自分自身が「信仰に満ちているときに告白することば」であると思いがちです。しかし、本当の「信仰のことば」とは、常に「告白していることば」のことなのです。

つまり、私たちは「神を信じている」のか「見えるところを信じているのか」を「告白することば」によって表明しているということです。

何か思いがけないことが起こったとき、私はついつい「最悪だ」と言ってしまいます。しかし、その告白こそ「最悪」です。

目の前の出来事がどれほど悪く見えようと、聖徒に「最悪」などありません。

その出来事が「最高に悪い」と私は思っているわけではないのです。ただ口癖のように、つい言ってしまうのです。

聖徒は、いわゆる世の中の「流行り言葉」に呑み込まれてはなりません。ついつい言ってしまうのは「心の中に満ちていること」だからです。

「すべてのことを働かせて益としてくださる方」で心が満ちていないからです。

アブラハムは、いわゆる「追い込まれた状態」でした。目的地には永遠にたどり着きたくないと思っていたでしょう。

しかし、そのような状況であっても、アブラハムの言葉には「主への信頼」がありました。

アブラハムは「イサクを失う」ことを知っていました。

しかし、彼は「主への不平不満」を口にすることはありませんでした。気休めも言いませんでした。

ただ「わが子よ、主が羊を備えてくださるのだ」と言ったのです。

本当に「羊が備えられている」という確信はなかったでしょう。

しかし、それでもこれは「信仰告白」なのです。

「追い込まれたとき」に、考えずにでる「ことば」こそ「本音」なのです。私は、主がアブラハムの「本音」を引っ張り出されたのだろうと思っています。

アブラハムは長い年月を「主と一緒に進んで」きました。これは主との関係から紡ぎだされた「ことば」なのです。アブラハムは「自分が信じてきた方をよく知っていた」のです。

創世記22:13
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊をとり、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。

「イサクに手をかけてはならない」という声をきいたとき、アブラハムは、その場にへたり込んでしまったのではないでしょうか。ですから、目を上げたのでしょう。そして、そこに雄羊を見つけたのです。

創世記22:14
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

「主が備えてくださる」という告白は「主が備えてくださった」という事実に変わりました。

「信仰が増す」とか「信仰の飛躍」と呼ばれることは、この「告白」と「事実」が重なる時に起こるものです。

私たちは、日々、主とともに歩みましょう。毎日、主への信頼を告白しながら歩みましょう。

目に見えることがどのようであったとしても「主の備えはある」と告白しましょう。

必ず「告白」と「事実」が重なる時が来ます。

そのとき、私たちは「信仰から信仰へ進む」とはどういうことか経験することができるのです。

私の口の言葉が御前に受け入れられますように
私は見えるところによらず信仰によって歩みます
主への信頼で心を満たしてください