創世記22:14
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。
主が備えてくださるのだと言いました
やっとの思いで絞りだした答えだったのか、それとも咄嗟に思わず出た言葉だったのか、御国でアブラハムに会ったときに聞いてみたいと思います。
どちらにせよ、これがアブラハムの「信仰のことば」であったことに間違いはありません。
私たちは「信仰のことば」とは、自分自身が「信仰に満ちているときに告白することば」であると思いがちです。しかし、本当の「信仰のことば」とは、常に「告白していることば」のことなのです。
つまり、私たちは「神を信じている」のか「見えるところを信じているのか」を「告白することば」によって表明しているということです。
何か思いがけないことが起こったとき、私はついつい「最悪だ」と言ってしまいます。しかし、その告白こそ「最悪」です。
目の前の出来事がどれほど悪く見えようと、聖徒に「最悪」などありません。
その出来事が「最高に悪い」と私は思っているわけではないのです。ただ口癖のように、つい言ってしまうのです。
聖徒は、いわゆる世の中の「流行り言葉」に呑み込まれてはなりません。ついつい言ってしまうのは「心の中に満ちていること」だからです。
「すべてのことを働かせて益としてくださる方」で心が満ちていないからです。
アブラハムは、いわゆる「追い込まれた状態」でした。目的地には永遠にたどり着きたくないと思っていたでしょう。
しかし、そのような状況であっても、アブラハムの言葉には「主への信頼」がありました。
アブラハムは「イサクを失う」ことを知っていました。
しかし、彼は「主への不平不満」を口にすることはありませんでした。気休めも言いませんでした。
ただ「わが子よ、主が羊を備えてくださるのだ」と言ったのです。
本当に「羊が備えられている」という確信はなかったでしょう。
しかし、それでもこれは「信仰告白」なのです。
「追い込まれたとき」に、考えずにでる「ことば」こそ「本音」なのです。私は、主がアブラハムの「本音」を引っ張り出されたのだろうと思っています。
アブラハムは長い年月を「主と一緒に進んで」きました。これは主との関係から紡ぎだされた「ことば」なのです。アブラハムは「自分が信じてきた方をよく知っていた」のです。
「イサクに手をかけてはならない」という声をきいたとき、アブラハムは、その場にへたり込んでしまったのではないでしょうか。ですから、目を上げたのでしょう。そして、そこに雄羊を見つけたのです。
「主が備えてくださる」という告白は「主が備えてくださった」という事実に変わりました。
「信仰が増す」とか「信仰の飛躍」と呼ばれることは、この「告白」と「事実」が重なる時に起こるものです。
私たちは、日々、主とともに歩みましょう。毎日、主への信頼を告白しながら歩みましょう。
目に見えることがどのようであったとしても「主の備えはある」と告白しましょう。
必ず「告白」と「事実」が重なる時が来ます。
そのとき、私たちは「信仰から信仰へ進む」とはどういうことか経験することができるのです。
私の口の言葉が御前に受け入れられますように
私は見えるところによらず信仰によって歩みます
主への信頼で心を満たしてください