No.363 これは最大の試みでした

山を越える

創世記22:2
神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

あなたが愛しているひとり子イサクを献げなさいと命じられました

明らかに「主の御声」でした。

ウルの地から出て「わたしの示す地へ行け」と言われた方と同じ御声でした。

「あなたの子孫は星のようになる」と約束された方の御声でした。

「サラから生まれる子にイサクと名づけよ」と命じられた方の御声でした。

確かに「あの方の御声」なのです。

アブラハムにとって、それは「疑いようもない事実」でした。

しかし、理解に苦しむ「命令」です。「なぜ」という文字が頭の中でグルグル回ったことでしょう。

アブラハムへの試みは「最大のもの」でした。これ以上のテストはありません。

しかし、この試みは「今までの関係」があったからこそのものです。

試練には段階があると私は思います。主からのテストは、一足飛びにはやってきません。

アブラハムは一つ一つクリアしていきました。間違うこともあったけれど、それでも「従う」ことをやめませんでした。

これは「最大で最後」の試みです。

「あなたの愛するひとり子を献げよ」

アブラハムには越えなければならないものが多くありました。

イサクへの愛着。

主の約束。

そして、人としての道理。

神様が矛盾しておられるという思い。

よく一晩で越えられたなと思います。彼の決心はすぐに固まりました。これが「積み重ねた経験」の実です。

創世記22:3a
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れていった。

考えても答えなど出なかったでしょう。

確かなことは「主が語られたのだ」ということだけです。そして、おそらくアブラハムにとっては、それだけで十分だったのです。

自分が納得できるかどうかは「関係がない」のです。

愛する兄弟姉妹。

私たちはまず「はっきり」と主の御声を聞き分けられるようになりましょう。

主が語られてもいないのに行くのは信仰ではありません。それはただの「独りよがり」「無鉄砲」というものです。

アブラハムは「はっきり」と御声を聞き分けました。

ゆえに「従った」のです。

創世記22:12
御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

御使いは「あなたが神を恐れることがよく分かった」と言いました。

つまり、アブラハムは「主を恐れているかどうか」を試されていたということです。

主は「主を恐れる者」に目を留められます。

主は「主を恐れる者」に御力を現わされます。

主の御声を聞いたなら「ただちに従う者」を求めておられるのです。

主は「ご自身」を信じる者を求めておられるのです。

「自分の理解できること」を信じる者ではなく「理解を超えた方」を信じる者を求めておられるのです。

「誰かに何を言われるか」など気にするに足りません。

「自分が納得できるか」も重要なことではありません。

もし、御声を聞くならば…

それが愛する主の御声であると確信したならば…

私たちも従いましょう。

ただ「告げられた場所へ」向かいましょう。

そして「告げられたことを行い」ましょう。

私たちは「主を恐れる者」として生きましょう。

主よ、御声を聞き分けられるようにしてください
私は、あなたに従います
私は、主を恐れる者です