創世記4:5~6
しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった、それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
主は、カインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
まだ受け入れられる余地はありました
主は、カインに言われました。「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる」と。
「受け入れられる」とは、別訳では「顔を上げられる」です。
カインは、顔を上げることができませんでした。自分でも「良いことをしていない」と分っていたのだと思います。しかし、顔を上げられなかったのは、自分の行いを恥じただからではなく「怒り、悔しさ」のためであったでしょう。
けれど、この時点では、まだ間に合ったのだと思います。顔を上げて、主を見上げれば、受け入れてもらえる余地があったと思います。
主は、カインを受け入れられませんでした。それは、カインが向きを変えて、主を仰ぎ見なかったからです。
カインは、悔い改めませんでした。「悔い改める」とは「向きを変える」ということです。放蕩息子のように、我に返って、自分の今いるところから「父」のもとに走って帰ることです。
カインは、「なぜ顔を伏せているのか」という主の御声を受け止めなければなりませんでした。しかし、彼には、主の御言葉よりも「罪」の呼ぶ声の方が慕わしく思えたのです。それは、カインが「怒り」を手放せなかったからです。
罪はあなたを恋慕う
カインの心には「怒り」が満ちていました。
それは、「激しい怒り」でした。自分を否定された「怒り」です。自分を認めてもらえなかった「怒り」です。私たちには身勝手な「怒り」に見えますが、カインにとっては「正当な理由のある怒り」であったのかもしれません。
たいてい「怒り」は、怒っている本人には「正当と思える」理由があるものです。しかし、どんな理由があったとしても、「人の怒り」では「神の義」は実現できません。
「人の怒り」は、神の義を実現しないばかりか、持ち続けると「悪魔に機会を与える」ことになります。
カインは、速やかに「怒り」を手放す必要がありました。なぜなら、罪が戸口でカインを待ってるからです。カインを自分のものにしたくて、今か、今かと待ちわびているのです。
「あなたはそれを治めなければならない」と主は言われました。そうでなければ、悪魔はこの機会を逃さないでしょう。誘惑するのに絶好の機会だからです。
神様は決して悪に誘惑されません。誘惑するのは常にサタンです。カインは「怒り」を手放せませんでした。その「怒り」は、自分は不当に扱われたという「怒り」です。自分は認められなかったという「怒り」です。
それは、カインの「自我」です。それは「自己顕示欲」です。そして、それは「いと高きかたのようになろう」としたサタンの「欲」です。
「自分・自分」の思いは、御父からは決してでません。イエス様は「あり方を捨てられ、ご自分を空しく」された方です。
私が「自分」に注目し「不当に扱われた」「正当な評価を受けていない」「怒って当然」という思いを持つとき、私は、キリストに似た者ではありません。
カインは、戸を開けてはいけませんでした。カインを恋慕っている「罪」の顔を見てはいけませんでした。「怒っても罪を犯してはならない」のです。
誘惑に抗うことは、なかなか難しいものです。それは罪であると理解していても、自分を慕ってくるそのまなざしは、なんとも魅力的であるからです。
ですから私たちは「罪を犯さないようにする」のではなくて、誘惑のもとである「原因」を手放さなければなりません。カインの場合だと、それは「怒り」の感情です。
戸のそばに近寄ってはならないのです。罪の顔を見ずに向きを変えねばなりません。カインは顔を上げなければならなのです。罪の待ち伏せる戸から離れて、向きを変え、主を見あげること。それが罪に捕まらない秘訣です。
確かに「罪は恋い慕って」来るでしょう。しかし、神様も「慕って」おられることを忘れないでください。主は、私たちのうちに「聖霊」を住まわせてくださいました。そして、御霊をねたむほどに慕っておられるのです。
確かに罪は「恋慕って」くるでしょう。しかし、それは最初だけです。罪は私たちを奴隷にします。
私たちは「生ける神の宮」「聖霊の宮」なのです。決して「罪の奴隷」となってはいけません。
しかし、カインは戸に寄ってしまいました。カインを恋い慕う罪は、喜んでカインを迎えたでしょう。カインは、自分を恋い慕う罪と手をつないで行ってしまいました。そして、結果は、ご存じの通りです。
カインは弟アベルを殺してしまったのです。罪と一つになった人が生み出した人類最初の悲劇です。
サタンは人殺しで盗人です
サタンの目的はカインに罪を犯させることではありません。確かに罪に誘惑してきますが、それは手段であって「目的」ではありません。
サタンの目的は、はっきりしています。
神様に目を留められたアベルを苦しめること、そして殺すことです。アベルの「たましい」は滅ぼせませんから、この地の「命」を奪ったのです。
そして、もうひとつの目的は、カインを自分に属する者にして、完全に神様から離してしまうことです。
悪魔は、初めから人殺しだとイエス様は言われました。悪魔は、どれだけ巧みに言いよって来ても、すべてが偽りです。言ってることは本当らしく聞こえても真理に立ってはいないからです。
サタンは、アベルに代表される「神の民」を苦しめます。それが神様を傷つけることになるからです。しかし、私たちの「いのち」は、神のうちに隠されています。私たちから「永遠のいのち」を奪うことは決してできません。
ですから、サタンは「それ以外」に対して攻撃してくるのです。
盗人とはもちろんサタンのことです。サタンの本質は「盗人」です。神様から人を盗みました。そして、今も、主が与えてくださる「豊かないのち」を私たちから奪い続けているのです。
サタンは、盗み、殺し、滅ぼします。
人をできるだけ多く自分と同じ場所に行かせるためです。神様と永遠に断絶させるためです。そして、それが「不可能」な「聖徒」の場合は、この世にあっての「豊かないのち」をできるだけ奪うのです。神様にある「喜び」に満ちた人生を奪って、代わりに「世の欲」で満たすのです。
喜びを奪い去ります
サタンは盗む者であることを覚えていてください。
私たちに用意されている豊かないのちを盗みます。イエス様は「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」と言われました。
しかしサタンはそれを奪うのです。これは個人的な意見ですが、私はサタンは特に「喜び」を奪うのではないかと思います。
サタンは、神様の御前にある「喜び」を知っていたと思います。
堕落する前、サタンは「守護者ケルビム」でした。確かに「ケルビム」の役割は「守護」のようです。いのちの木への道を守るために主は「ケルビム」を置かれましたから。
まあ、しかし、今回はそのことについて詳しく話している時間はありません。また機会があれば学びましょう。今は、ケルビムは、神様の栄光を知っていたことだけ見たいと思います。
ケルビムについて詳しいことはわかりません。しかし、彼らが主の栄光を見て、その臨在の中にあったことは確かでしょう。「彼ら」というのは「ケルビム」は複数形であるからです。単数だと「ケルブ」です。堕落前のサタンは、この輝かしい「ケルビム」の一人であったのでしょう。
主の御前に「いる」ことをサタンは知っているのです。そこにある「栄光」「喜び」を知っているのです。彼は「タンバリン」と「笛」を持っていましたから「賛美」をささげていたことは確実でしょう。私たちも知っています。主の御前にささげる賛美が「喜び」に満ち溢れていることを。
私は、主の御前には「喜び」が満ちあふれていると信じています。天の御国は「喜び」の国であると信じています。
神様の御前には満ち足りた喜びがあります。神の国は「義と平和と喜び」です。
しかし、教会はどうでしょう?
私たちの家はどうでしょう?
仕事は楽しいですか?
兄姉の交わりは喜びをもたらしますか?
なぜ私たちはこんなにも疲れているのでしょう?
盗まれているのです!
こっそり忍び込まれているのです。喜びを盗み去り、不平不満の種を蒔かれているのです。主の御前の満ち足りた喜びに私たちを浸らせないようにしているのです。サタンは知っているからです。
「喜び」が、私たちのうちにどれほどの力をわき上がらせるかということを。それは、苦痛を忍ぶ強さをわき上がらせるものです。
喜びに満ちた人と一緒にいれば元気になります。不平不満だらけの人と一緒にいればやる気を失います。サタンは、私たちから「喜び」を奪うのです。そして、私たちの心に教会に対する「不平不満」を蒔くのです。
家もつまらない、仕事もつまらないし、交わりもつまらない。そんな人生を歩ませたいのです。
サタンの最終的な目的は人を滅ぼすことです。つまり、神様と永遠に断絶することです。罪を犯させることが最終目的ではありません。滅ぼしたいのです。神様から永遠に離したいのです。
自分がいつか投げ込まれる場所に一人でも多く連れて行きたいからです。それが一番神様を傷つけることになるからです。
ゆえに、私たちから「喜び」を奪います。「世の光」であるはずの私たちから「喜び」が奪われたらどうなりますか。私たちはみな、暗い目をしてトボトボとこの世の旅路を歩かなければなりません。自由にされたはずなのに、なぜか鎖に繋がれているかのようにして。
かろうじて「永遠のいのち」を失うことはないかもしれませんが「豊かないのち」は失います。
「暗い目」をして「しょうんぼり」「トボトボ」と歩くなら「世の光」としての役目を果たすことはできません。サタンの狙いはそこにあるのです。
顔を伏せずに主を仰ぐこと
「何ということをしたのか」と主は言われました。しかし、それでもカインは自分の罪の重さに気がつきませんでした。
「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人なる」と主は言われました。カインはこの時に初めて嘆くのです。
弟アベルを殺してしまったという罪責感ではありません。自分の身に降りかかってきた「罪の結果」に震えおののいたのです。
「咎は大きすぎて負いきれません」これが人の姿です。人は自分の犯した「罪の結果」を負うことができないのです。
「あなたが」とカインは言いました。さすらい人になる原因は「カイン」にあります。しかし、カインは「あなたが」追い出されると言うのです。そして「誰かに殺されてしまうかもしれません」と言います。
カインという人の特質がよく分かる言葉だと思います。悪いことはみな「あなた」のせいだと言います。そして自分のことだけを心配しています。「自分・自分」の心の持ち主です。
この「しるし」については諸説ありますが、具体的なことはわかりません。ただカインはこのしるしによって打ち殺されずにすむのです。
彼は主の御前から出て行きました。エデンの東の地に住みました。「ノデ」とは「さすらい・放浪する者・放浪」という意味です。「さすらいの町」と訳すこともできます。
「ノデ」という土地は実際には存在しないという先生もいます。つまり特定の町名ではなくカインが流れ着いた町を「ノデ」と呼んだのだということです。そうかもしれません。
いずれにせよ確かなことは、カインがさすらい人となったということです。神様から離れた人は、さすらい人になります。
サタンの目的は今も同じです
カインよりも、ずっと前にサタンも神様の御前から出て行ったのです。サタンも「さまよって」いるのです。地を行き巡り、そこを歩き回っているのです。そして、ヨブに目を留めたのです。
サタンはヨブを狙いました。地上で最も誠実だといわれたヨブを引きずり落としたかったのです。
サタンの目的は、今も同じです。地を歩き回っています。そして、食い尽くす相手を探しています。
サタンが歩き回っていることを忘れないでください。アベルを殺し、カインをさすらい人とした敵は、今も歩き回っています。あわよくば「聖徒」を自分と同じ「さすらい人」にしようと目論んでいるのです。
「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい」
顔を伏せてはいけません。自分の「怒り」を手放すのです。「正当な権利」を訴える声に耳を傾けてはいけません。
「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ、顔を伏せているのか」
主の御声を聞いてください。そして、顔を主に向かって上げるのです。
罪は私たちを恋い慕っています。サタンは、私たちの手放さない「自我」を見逃しません。「怒り」を持ち続けて、サタンに機会を与えてはいけません。
戸を開けて罪と手を繋いではなりません。その先に生まれるのは「死」だけです。
決して神様の御前から出て行ってはなりません。神がなければ望みもないからです。さすらい人に望みはありません。
覚えてください。どれだけサタンが獅子のように吠えようと、地を歩き回るサタンの最後は「滅び」なのです。
戸を開けずに向きを変えて、主の御もとに走り寄ることです。主の御前に行くのです。「怒り」を捨てる場所はそこにあります。イエス様の十字架で解決できない問題は何一つないと信じます。
いつの時代も人の救いの望みは唯一です。
顔を伏せてはいけません。
主を仰ぎましょう。この方こそ私たちの望みであり救いです。