黙示録3:4
しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者だからである。
どのように受け、聞いたのか思い起こしなさいと言われます
前回は、黙示録3章1節と2節を学びました。今回は、その続きです。
「生きているとは名ばかり」とは、かなり厳しいお言葉です。
自分たちや、周囲が「生きている」と思っていたとしても、その実は「死んでいる」ということがあるのです。
これは、私たちも深く心に留めなければなりません。
さて、そのようなサルディスの教会に対して、主は言われます。
サルディスの教会には、まだ「望み」があります。イエス様は「どうするべきであるか」を示してくださいました。
まずは「どのように受け、聞いたのかを思い起こし、それを守り、悔い改めなさい」と言われます。
つまり、サルディスの教会は「最初に聞いたこと、受けたこと」を忘れてしまって、その教えを守っていなかったということです。
なんとなく「エペソの教会」への叱責と似ているように思います。
エペソの教会は「はじめの愛から落ちた」と言われました。
サルディスの教会も「最初に聞いたこと」から落ちてしまったのでしょう。
確かに「聞いた」はずなのです。しかし、彼らは「それを守って」いませんでした。
彼らは「どのように受け、聞いた」のでしょう。それは、もちろん、私たちが「受け、聞いた」ことと同じはずです。
彼らも、私たちも「福音」を聞いたのです。
しかし「福音」を「守って」いないとは、いったいどういうことでしょう。
まず「福音」とは何かを今一度、思い返してみましょうか。
パウロは、コリントの人々に「福音を、改めて知らせます」と記しています。
まず福音とは「受け入れる」ものです。私たちは福音を受け入れたので「立つ」ことができています。
パウロが伝えた福音を「しっかりと覚えているなら」、その福音によって「救われる」のです。
しかし、覚えていないなら「信じたことは無駄」になります。
これは、恐ろしいですね。そして、サルディスの教会に起こっていたのは、まさにこのことです。
彼らは「しっかりと覚えて」いませんでした。福音を確かに聞いたけれど「覚えて」いなかったのです。
ですから、彼らの「信じたことは無駄」となりました。ゆえに彼らは「生きているとは名ばかり」と言われたのです。
さて、福音とは何でしょう?
まず、福音とは「最も大切なこと」です。そして、それはパウロ自身も「受けた」ことです。
その「最も大切なこと」とは、次のことです。
「福音」とは、まず「御子イエスのこと」です。
イエス様は「私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられ」ました。
「聖書に書いてあるとおり」というのが重要です。パウロの言う聖書は「旧約聖書」のことです。
つまり、これは、パウロが勝手に考え出した物語ではないということです。
これは、創世記のはじめから「記されていた」神のご計画でした。
イエス様は、蛇の頭を打ち砕くため、私たちを死の恐怖から救い出すために来られました。
私たちの背きの罪のために十字架に架かり、死んで、葬られ、よみがえってくださいました。
これは「聖書に記されているとおり」に成されたのです。
私たちは、この「福音」を聖書に記されているとおり「信じる」ことで救われるのです。
信じることによって「義」と認められることは、あらかじめ「創世記」に記されていました。
聖書は「イエス・キリストに対する信仰」をあらかじめ記していました。
私たちは「イエス・キリストに対する信仰によって」救われるのです。
これこそ、私たちが「受けて、聞いた」ことです。
そして、サルディスの教会が「受けて、聞いた」ことでもあります。
世界中の聖徒が「受けて、聞いた」ことなのです。
そしてこれが「福音」なのです。パウロが言うところの「最も大切なこと」です。
サルディスの教会は、この福音を「守って」いなかったと言われているのです。不思議な言い方だと思いませんか。
「福音」を守るとは、すなわち「福音によって生きる」ということです。
彼らは「福音によって生きていなかった」のです。彼らの信仰告白は「形式的なもの」となっていたのです。
ただ、福音を「知識として知っている」だけでは「信じたことは無駄」になります。
「信じる」とは、その通りに「生きる」ことでなくてはならないのです。
本当に「福音」をしっかりと信じたのならば「福音にふさわしい生き方」に導かれます。
信仰者はみな「福音にふさわしく生きる」ようにと召されているのです。
信仰の告白と生き方は「一つ」でなければなりません。
サルディスの教会は「信仰告白」と「生き方」が分離していたのです。
ゆえに彼らは「生きているとは名ばかり」と呼ばれたのです。
福音にふさわしい生き方とは「主の再臨を待ち望む生き方」です
パウロは勧めています。
聖徒はみな「キリストの福音にふさわしく」生きるように言われています。
「生活する」という語は「市民として」という意味を含めることができます。
つまり「キリストの福音にふさわしい生き方」とは「天国の民として生きる」ということです。
同じピリピ書で、パウロはこう言っています。
天国に国籍を持つ者としての自覚がありますか。
「イエスを主と告白」した者はみな「天に国籍」を持っているのです。私たちは「天国民」なのです。
天国民はみな「主イエス・キリストが救い主として来られるのを待ち望んで」います。
つまり、天国民は常に「天を仰いで」いるのです。
では、天国民でない人のことをパウロは何と呼んでいるでしょう。
たいへん厳しいようですが、天国民でなければ「十字架の敵」です。
彼らは、決して「天を仰ぐ」ことはしません。彼らは「地上のことだけを考える者たち」です。
愛する兄弟姉妹。
前回、私たちは「サルディスの教会はプロテスタントの時代の教会を現わす」ということを学びました。
そのことを踏まえて、真剣に考えて見てください。
私たちの目は「どこを向いている」でしょう。
私たちは「地上のことだけを考え」ていないでしょうか。
日々、天を仰ぎ「そこから主イエス・キリストが救い主として来られる」ことを待ち望んでいるでしょうか。
「生きているのは名ばかり」という状態から脱出するために必要なことは「悔い改め」です。
主は、サルディスの教会に「悔い改め」を命じておられます。
「悔い改め」とは、ただ「赦しを請う」ことではありません。それは「方向を転換すること」です。
「地上のことだけを考える生き方」から「天を仰ぎ主イエスを待ち望む生き方」へと思いを変換させることです。
サルディスの教会は早急に「悔い改める」必要がありました。
なぜなら、イエス様は続けてこう言われたからです。
主は「盗人のように来る」と警告されます。
「地上のことだけを考える人」にとって、主の再臨は「予期せぬ出来事」となります。
どうか忘れないでください。
この手紙が「教会」に宛てて送られたのだということを。
信仰告白をし、洗礼を受け、教会に集っていた人々に対して送られた手紙なのです。
イエス様が「いつ」戻って来られるのかは分かりません。
ですから、私たちは「油断」してはならないのです。
不注意と油断が招いた結果
サルディスの町については興味深い話があります。
サルディスの人々は、とても険しい場所に城壁を建てていました。建てる力があったのです。また、それを建てるための努力も惜しみませんでした。彼らの自然の要害は「難攻不落」と呼ばれていました。
しかし、その「難攻不落」の城壁は、いとも簡単に「落ちた」のです。
その理由は「不注意」と「油断」でした。
ペルシャのキュロス王は、「サルディスの難攻不落の城壁」への進入路を捜していました。しかし、あまりにも険しい場所に建てられていたので、なかなか進入路を発見できませんでした。
そのような時、サルディスの城壁の見張りについていた兵士の一人が、城壁から自分の「かぶと」を落としてしまったのです。大事な頭を守る「かぶと」を戦いの最中に落とすなんて、とんだうっかり者です。
「かぶと」は、城壁の外に転がり落ちました。その兵士は、あわてて拾いに来て、そして「いとも簡単に」城壁に戻って行ったのです。つまり、城壁に通じる「隠し通路」のようなものがあったのです。
その「戻って行くところ」をキュロスの兵が見ていました。「隠し通路」は、難なく発見され、キュロス軍はいとも簡単に城壁を落としたと言われています。サルディスは兵士の「不注意」で陥落したと言えます。
実は、サルディスは、もう一度陥落しています。
紀元前216年ごろ、アンティオコスの軍に攻め落とされました。
たった5名で忍び込んできた兵たちが、城壁の門を開いてアンティオコス軍を招き入れたのです。サルディスの軍は彼らの侵入にまったく気がつきませんでした。
なぜなら、サルディスの軍は、自然の要害にある城壁に安心しきっていて「見張りを置いていなかった」からです。見張りはいたが「居眠りをしていた」という説もあります。いずれにしても「油断」していたことに間違いはありません。
サルディスの城壁は「不注意」と「油断」で陥落しました。
私は、サルディスの教会にも「不注意」と「油断」が満ちていたのではないかと想像します。
そして、私たちのうちにも「不注意」と「油断」が蔓延しているように思えます。
私たち「プロテスタントの教会」は、正しい教理に立っていることに慢心しているかもしれないなと感じます。
確かに、私たちは「偶像を拝む」ことはしません。「イエス様の御名以外に救いはない」と宣言しています。聖書をそのまま信じています。
しかし、本当の意味において「福音を生きている」でしょうか。
私たちは「救いのかぶと」を決して落としてはなりません。それは死守せねばならないものです。
私たちは「見張り」を怠っていないでしょうか。
主は「目を覚ましていなさい」と言われたのです。
「目を覚ます」という語は「油断せず注意している」という意味もあります。
私たちは「油断」してはならないのです。
主を待ち望むことに飽きてはなりません。私たちは「天国人」として、日々「天を仰いで」生きるのです。
主は必ず来られます。
天に召されるか携挙されるか、どちらが早いか分かりませんが、私たちは必ず、主イエスにお会いします。
主を待ち望みつつ生きる者が「生きているのは名ばかり」と呼ばれるようなことはないと私は信じます。
「地上のことだけを考える者」ではなく「天を仰いで主イエスを待ち望む者」として生きましょう。
信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。
私たちは「目を覚まし」ましょう。「油断せず」生きましょう。
わずかだが、衣を汚さなかった者たちがいる
「サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる」とイエス様は言われます。
「わずか」と言われることが気にかかりますね。大多数の人が「衣を汚していた」ということです。
サルディスの教会は、おそらく「妥協」した歩みが日常的であったのでしょう。
本当に「新しく生まれた聖徒」は、みな「新しい人」を着ています。
私たちは「霊と心において新しくされ続け」なければなりません。
「少しぐらいの汚れは大丈夫」と見過ごしてはならないのです。汚れは、毎日、洗い落とさねばなりません。
しかし、サルディスの教会の聖徒たちは「聖」とされることを「重要だ」とは思わなかったのでしょう。
主のみこころは、私たちが「聖なる者」とされることです。
私は「律法主義」と呼ばれるのを恐れるあまり「聖なる歩み」について強調しない傾向にあるように思います。
「行い」によらない「救い」を強調するあまり「罪」に対して「寛容」になる傾向があるように思います。
これは、やはり反省すべき点であると思います。
愛する兄弟姉妹。
確かに、主は、罪を赦してくださいます。イエス様の十字架により「過去の罪も、現在の罪も、未来の罪さえも贖われた」というのは真理です。
主の恵みは天にまで及びます。主の永遠の御手は下にあります。
今、キリスト・イエスにある者は、決して罪に定められることはありません。
ハレルヤ!
素晴らしいですね。これは、真理です。私たちは罪人ではなく「聖徒」です。
しかし、だからこそ「聖なる者」でなければならないのです。
「生活のすべてにおいて」とペテロは言います。
主は、私たちの「生活のすべて」に関心を持っておられます。教会に座っているときの「お行儀のよい私」だけではなく、家や職場での「私」にも興味を持っておられます。
主は、私たちが「生活のすべてにおいて聖なる者」であるようにと望んでおられるのです。
私たちは「従順なこども」となりましょう。そして「聖められること」を追い求めましょう。
サルディスの教会において「聖さ」を追い求めた人は「わずか」であったのです。
大多数の「名ばかりの聖徒たち」は「衣を汚す歩み方」をしていました。しかし、彼らは自分たちが「名ばかりである」とは思っていなかったでしょう。
立派な教会に通う「わずか」な聖徒だけが「衣を汚さなかった」のです。そして、その「わずか」な聖徒だけが「主を見る」ことができるのです。
彼らは「わたしとともに歩む」とイエス様は言われます。サルディスの「わずかな者たち」は、主イエスと「ともに歩いていた」のです。
さあ、もう周囲を見るのは終わりにしましょう。
大切なのは「私の衣は汚れていないか」ということです。
大切なのは「私は、主イエスと歩いているか」ということです。
「わずかな者」でもいいではありませんか。周囲と違っても恐れることはありません。
小さな群れよ、わずかな者たちよ、恐れることはありません。
天の御国は「小さな群れ」に与えられます。
「わずかな者」たち、主はあなたとともにおられます。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「聖なる」ことを求めましょう。「聖さ」を追い求めましょう。
イエス様と一緒に歩むことを切に切に求めましょう。
勝利を得る者の「名」が言い表されます
「わずかな者たち」に与えられる素晴らしい未来を見てください。
彼らは永遠に「主のもの」です。
彼らの名前は「天の御国」において「言い表される」のです。
あなたの名前は「いのちの書」に記されているのです。
御父は、それを受け入れられます。御使いは、あなたの名が呼ばれるのを喜んで見ています。
イエス様が、あなたの名前を高らかに宣言されます。そのような日が必ず来るのです。
主が「あなたを喜ばれる」のだということを忘れないでください。
主は、今も、そして永遠の先も「あなたのただ中にあって救いの勇士」です。
今も、永遠の先も「ともに歩く方」です。
覚えてください。
「今」ともに歩かないなら、永遠の先をともに歩くことはできません。
「今」は「永遠」につながっています。決して「バラバラ」に存在しているのではないのです。
「生きているのは名ばかり」であるならば「いのちの書に名前」があるかは怪しいところです。
私たちは、この地上を生かされている間、「キリストの福音にふさわしい生活」をしましょう。
見えない方を「見るように」忍び通し、信仰を堅く守って生きましょう。
「本当に生きた教会」として、衣を汚さず生きましょう。
天国人として、天を仰ぎ「主イエスの来られること」を待ち望みつつ生きましょう。
主は「わずかな者」とともに歩いておられます。
祝福を祈ります。