箴言18:21
死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。
いのちは「舌」に支配されています
私たちは「舌の実」を食べて生きています。
普段あまり意識してはいないかもしれませんが、私たちは「自分の話す言葉の実」で自分自身を養っているのです。
私は「肯定的思考」「積極的思考」のような話をしているのではありません。
「日常的な会話」の話をしているのです。
「肯定的な言葉」を宣言し続ければ「祝福」されると考えて、日々、聖書のみことばを宣言している兄姉もおられるでしょう。
もちろん、みことばを宣言するのは素晴らしいことです。
けれど、みことばを宣言しているのに、なぜか「あまり良い実を結べない」ということが起こり得るのです。
もし、私たちが「普段の会話」において「肉からのことば」を語っているならば、毎日の御言葉の宣言を自ら台無しにしているのです。
私がイライラして「ちょっと、何やってるの、まったくダメな人だな」と誰かに言うとします。
それは「肉のイライラ」から発した言葉ですから、私は「肉に蒔いた」のです。
そのようにして、日々「肉からのことば」を蒔き続けるならば、当然、刈り取るのは「滅び」です。
毎日、みことばを宣言するのは大切です。しかし、それは「心に結びつけ」なければ無意味です。
みことばの宣言は「呪文」ではありません。それを「唱えれば」幸せになるというようなものではありません。
宣言とは「同意する」という意味です。心から「主のみことば」に同意することです。
大切なことは「みことばを生きる」ことです。つまり、評価されるのは「私たちの結ぶ実」であるということです。
いくら聖書を知っていても「肉のことば」を発しているのなら、刈り取るのは「滅び」です。
私たちは「舌の実」を食べて生きているのです。「知識」を食べて生きているのではありません。
「愛」について感動的な説明ができても、隣人を傷つけたり、冷たいことばを浴びせて歩んでいるのなら、私は「肉に蒔く者」なのです。
また自分に対してもそうです。
「もうだめだ」
「無理に決まってる」
「適当にやっておこう」
このような言葉も「肉からのことば」です。つまり刈り取るのは「滅び」です。
耳が痛いですね。私は、四六時中、このような言葉を発している気がします。
「死」か「生」かは「舌」によって決定されるのです。
「死」の方が先に記されているのが興味深いですね。委ねられていない「舌」は、「死の実」を結ぶことのほうが多いからかもしれません。
選んで食べるのは「自分自身」であることを覚えてください。たとえ「そんなつもりはなかった」としても、私たちは必ず「どちらか」を食べているのです。
しかも、聖書は「どちらかを愛して、人はその実を食べる」と言っています。
私たちは「どちらを愛して」いるでしょう。
私たちは、互いに励まし合いながら、徳を高める言葉を掛け合いながら、一緒に歩んで行きましょう。
主よ、私は「いのち」を愛します
私の「舌」を聖霊様に委ねます
私を御霊に蒔く者としてください