黙示録3:1
また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。「神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われるー。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
七つの御霊と七つの星を持つ方
黙示録の学びも3章まできました。今回から「サルディスにある教会への手紙」について学んでいきます。第5番目の手紙です。
イエス様は、サルディスの教会に「神の七つの御霊と七つの星を持つ方」として現れてくださいました。
「神の七つの御霊」とは、完全なる聖霊様のことです。
「屠られた姿で立つ子羊」とは、もちろん私たちの主イエスのことです。
子羊であるイエス様は「七つの角」と「七つの目」を持っていると記されています。
詳しくは黙示録5章で学びます。
今は、子羊が持っている「七つの目」は「全地に遣わされた神の七つの御霊である」ということに注目しましょう。
十字架に架かられたイエス様は、死んで葬られ、天に昇られました。
今、地上におられるのは「全地に遣わされた神の七つの御霊」です。聖霊様こそ、聖徒とともにおられる神です。
聖霊様は「全地に満ちて」おられます。そして、この方こそ「七つの目」つまり「完全なる神の目」なのです。
主イエスは「七つの御霊」を持っておられる方としてサルディスの教会に啓示されました。
また、主イエスは「七つの星を持つ方」です。
イエス様は、エペソの教会に対しても「七つの星」について言及しておられます。
エペソとサルディスの違いは七つの星を「握る方」と「持つ方」の違いです。
エペソに対してイエス様は「星を握っている」と言われました。
そして、サルディスに対しては「星を持っている」と言われるのです。
この違いは何でしょう?
「握る」とは、原語では「支配している」「掌握している」というような意味を含んでいます。
「持つ」とは、原語では「所有している」「身に帯びる」というような意味を含んでいます。
イエス様はエペソの教会においては「完全な支配権」を示され、サルディスの教会においては「ご自身と一体である」ということを示されました。
主は「七つの神の御霊」と「七つの星」を身に帯びられるのです。すなわち「聖霊」と「聖徒(みことばを伝える者)」を身に帯びられるということです。
ここに「聖なる三位一体の交わり」が示されていると私は思います。
救われた聖徒は、みな、交わりに召されているのです。御子イエスを信じる者は「神の子ども」となる特権が与えられます。
私は「御父」と「御子」の家族に招き入れられたのです。
私たちが「神の子ども」である証印は「聖霊」です。私たちのうちに住まわれる「聖霊」によって私たちは「聖なる三位一体の交わり」に加えられるのです。
つまり、私たちの交わりとは「御父」と「御子」と「私たちのうちにおられる聖霊」の交わりと言うことです。
ですから使徒ヨハネは「御父」と「御子」にしか言及していないのです。聖霊は「私たち」とともにおられるからです。
主イエスは「七つの御霊」と「七つの星」を身に帯びておられます。
生きているとは名ばかりの教会と呼ばれています
イエス様は「わたしはあなたの行いを知っている」と言われます。
主は、いつもそのように言われますね。
私たちの「行い」は善であれ悪であれ、すべてイエス様の前に明らかにされています。
主は「七つの目」である御霊を持っておられます。
聖霊様は「神の目」です。この方の御前に私たちは何一つ隠しおおせることはできません。
イエス様は私たちの行いをご存知です。そして、私たちの行いの評価をされます。
主は、私たちの行いを表面上の出来事だけで判断されません。それが「上手くできた」からと言って、必ずしも「良い」と判断されるとは限りません。「うまくできなかったなぁ」と思うことのすべてが「悪である」と評価されることもありません。
主は、そこに「いのち」があるかないかを見られるのです。
残念なことにサルディスの教会の行いは「いのちがある」とは判断されませんでした。
彼らには何かしらの「行い」はありましたが、そこには「いのち」はないと判断されたのです。
イエス様は、サルディスの教会を「実は、死んでいる」と評価されました。
彼らのことを「生きているとは名ばかりの教会」と評されたのです。
かなり厳しいお言葉です。
サルディスの教会についての情報は少ないです。彼らの問題が「具体的には何であるか」ということについてイエス様は言及されていません。
エペソの教会は「初めの愛から離れて」いました。
ペルガモンには「サタンの座」があり、バラムの教えが広まっていました。
ティアテラの教会には「あの女、イゼベル」がいました。
サルディスには何の問題もないように見えます。
しかし、実は、それこそがサルディスの教会が抱えていた問題であるとも言えます。
外に激しい戦いがあったスミルナの教会は「苦難と貧しさ」の中にありました。しかし、彼らは「実際には富んでいる」と言われています。彼らのうちには「いのち」がありました。
しかし、外に戦いがなく、内側にも大きな問題を抱えていないサルディスの教会には「いのち」がなかったのです。
「生きているとは名ばかりで」とは「生きているという定評はあるが」という意味です。
サルディスの教会は「素晴らしいね、あの教会は生きている」と周囲から称賛されているような教会であったのです。
しかし、イエス様からは全く称賛されていません。つまり、サルディスの教会は「人々を喜ばせる」ことはできても「主を喜ばせる」ことはできていなかったということです。
パウロは言います。
「人々を喜ばせること」と「神を喜ばせること」は相反するのです。
私たちみなが「神を喜ばせること」を志すときにだけ、それは一致します。
もし私たちが「人を喜ばせようとしている」のなら、私たちは「神のしもべ」ではありません。
サルディスの教会は「人中心」の教会であったのだろうと思います。みなが気分よく集える教会であったのだろうと想像します。
しかし、集っている人々は喜んでいても、主なる神様は喜んではおられなかったということです。
あからさまに罪深いことを行っていなかったとしても「神中心」でなく「人中心」の教会に「いのち」が流れることはありません。
これは、かなり厳しく耳の痛いことばです。しかし事実なのです。
サルディスの教会のことを人々は「生きている教会」だと言いました。
しかし、イエス様は「実は、死んでいる」と言われたのです。
それはプロテスタントの時代だと言われます
前回まで学んでいた「ティアティラの教会」は「6世紀から15世紀までの教会の暗黒時代」を現わしていると言われました。つまり「宗教改革以前」の教会時代です。
ということは、その次の時代は「宗教改革後の時代」ということになりますね。
サルディスの教会は、十六世紀の宗教改革時代の教会の姿を現していると言われています。堕落していた教会の中にも、残りの民がいて、宗教改革がなされたのです。実際にプロテスタントの教会を見るときに、堕落したカトリック(西方教会)やイコン礼拝などをするギリシャ正教会(東方教会)と比べて、生きているように見えます。しかし、実際は、死んでいるのではないでしょうか。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
つまり、サルディスの教会は「プロテスタントの時代の教会」を現わしているということです。
これは、かなりショックですね。
私たちは「世の終わりの時代の教会」です。けれど、プロテスタントの教会の一員でもありますから、まったく無関係とは言い切れません。
世の終わりが近づいている今、私たちの周囲には少し「危機感」が漂い始めています。
しかし、完全に「目覚めている聖徒」はどれぐらいいるでしょう。私たちは、神のいのちにあふれて歩んでいるでしょうか。
この教会はイエス・キリストを信じると告白する教会なのに、聖書にあるすべての奇跡を自然科学の用語で説明しようとし、神の力を忘れてしまっています。すべての束縛、権力組織、形式的な典礼から解放されたものの、それに代わる良いものを見出していません。儀式的な教会を格式ばって死んでいると見なしながらも、同じ裁きを自分の身に招くようなことをしているのです。
黙示録の封印を解く チャック・スミス著 プリズム社
私たちは同じ信仰告白に立っています。みな「イエス・キリストは主です」と告白します。
そして、私もそうですが「自分は健全な聖書信仰の上に立っている」と信じています。
宗教改革は「形式的な典礼」から私たちを解放してくれました。私たちは「形あるもの」を拝みません。
私たちの神は「不滅で目に見えない唯一の神」だからです。
私たちは「正しい信仰」の上に立っています。
しかし、本当に正直に自分自身を見つめるとき「神のいのちに生かされた歩み」をしているだろうかと疑問に思ってしまうのです。
私たちの教会は、本当の意味で「生きている教会」でしょうか。
生きている教会には「成長」があります。いのちのあるものは、すべて成長します。そこには「変化」があります。「躍動」があるのです。
確かに「問題」も起こるでしょう。「戦い」もあります。
それが「教会」なのです。
もし「教会」から戦いがなくなったとしたならば、それは「安定した」のではなく「眠っている」ということです。サタンは「眠っている教会」には何もしません。そのまま放っておけば「死んでしまう」ことを知っているからです。
驚くべきことには、この教会がサタンによって休息させられているということ、偽りの教師や狂信者や悪い預言者がその中にいないということが問題である。問題は、この教会が死んでいるということである。すなわち、サタンがこの教会を休ませているのであり、ここではすべてのこと、ー教理、倫理、組織ーが秩序づけられている。しかし、これは皆みせかけにすぎない。そこには生命がない。
すべてのものの終わり ヘルムート・フライ 聖文舎
恐ろしい真理が浮かび上がります。
つまり「教会に戦いがないならば、それはサタンと仲良しだから」という真理です。
サタンが与える「休息」に騙されてはなりません。
聖書は言います。
なぜなら、そのような人はみな「世と分離」するからです。「世と手をつながない」からです。
そのような人のことをサタンは嫌います。光を輝かせて、いのちにあふれて歩む人を攻撃します。
しかし「眠っている人」を攻撃することはありません。「寝た子」は、そっとしておかれます。むやみに起こして騒ぎを起こされると困るからです。
本当に「生きている教会」には「戦い」が必ず起こります。
彼らは「この世の君が支配する世界」において「騒ぎを起こす者たち」だからです。
せっかく「眠っていて」このまま「滅びに向かう人たち」を「光の中へ」移そうとするからです。
サタンは、自分の王国の住民に「何の干渉もしない」ならば、その教会を敵視することはありません。
「神中心」ではなく「人中心」の教会を歓迎しています。「好きにやらせておいても何の害もない」と思っているからです。
私たちは「人を喜ばせて」いるでしょうか。
それとも「神を喜ばせ」ようと努めているでしょうか。
礼拝の中心は「神への賛美」「神への畏敬」でしょうか。
それとも自分の「願い」「癒し」のためでしょうか。
私は「人に取り入ろうとしている」のでしょうか。
それとも「神に取り入ろうとしている」のでしょうか。
「実は、死んでいる」と言われるイエス様の言葉を真剣に考えることが必要です。
「この世」に生かされている間は、まだチャンスがあります。
「眠っている人」として「死者の中から起き上がる」ことができるのです。
しかし、この世の命も、いつかは必ず尽きます。そのときには、もうチャンスはありません。それは「眠り」ではなく「死」です。
今、私たちは起き上がりましょう。
これは「教会の聖徒への手紙」であることを覚えていてください。
「実は死んでいる」と言われているのは「聖徒」なのです。
イエス様は、呼びかけておられるのです。
まず、私が目覚めなければなりません。
「目を覚ませ」と主は言われます。
「起きよ」と言われるのです。
今、「死」に向かっているとは夢にも思わず「眠っている人々」を叩き起こせと言われるのです。
主は、辺りを見回して「死にかけている者たちを力づけよ」と命じられます。
「力づけよ」とは、ギリシャ語の意味は「堅く据える」「設置する」「固定する」という意味です。
私たちは「キリストに堅く据えられる」必要があるのです。
「目を覚ます」とは、キリストに堅く「結びつくこと」なのです。
「目を覚ます」とは、自分が一体どこに立っているのかということをはっきりと認識することです。
私は、サタンの支配下ではなく「神の統治下」にある者だと確信することです。
そうすれば、必ず「敵の陣地」から火矢が飛んでくるでしょう。
その火矢は「中傷」かもしれません。「非難」かもしれません。「怒り」かもしれません。いずれにせよ、何かしらの「揺さぶり」が必ず起こるでしょう。
しかし、それは、あなたが「神の領域」にいる証です。
そして、サタンに「敵地の人間」だと認識されたと言うことです。
起きなさい。目を覚ましなさい。
そうすれば「戦いなんてない」という寝言は言えなくなります。
起きなさい。目を覚ましなさい。
そうすれば、あなたの上に「キリストの光」が輝きます。
私たちは、まず起き上がり、そして、すぐ横で「眠っている人」を力づけるのです。
イエス様は「わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない」と言われました。
これは「宗教改革」について言われているのかもしれません。
私は、宗教改革は「完了していない」と思っています。
私たちは、まだ「完全」ではありません。多くの得たことはありました。しかし「知らなければならないほどのことも知っていない」のだと思います。
チャック・スミス師が言うように「すべての束縛、権力組織、形式的な典礼から解放されたものの、それに代わる良いものを見出していません」と、私も思います。
私たちは、本当に「キリストに堅く据えられる」ことがどのようなことか知らねばなりません。
「いのち」あふれる生き方を私たちは知らねばなりません。
初代教会の時代に現わされた「偉大な神の御力」を私たちは求めましょう。
「目を覚ませ」という呼びかけに応じる者とされましょう。
主よ、私は目覚めます。あなたの光を輝かせてください。
日本中の教会が「いのち」に満ちあふれますように。
まず、私が「いのち」にあふれるように切に願います。
いのちにあふれる教会とは
いのちにあふれる教会には「主への恐れ」があります。
初代教会の人々は「教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをして」いました。
私たちも同じですよね。
私たちも、聖書の御言葉から教えを受け、聖徒たちと交わりを保ち、聖餐式を行い、祈っています。
しかし、彼らのうちにあふれていた「いのち」が私の中にはないことを痛感しています。
毎日、救われる人々が加えられたのです。そして、その加えられた人々は「一つ」とされたのです。彼らのうちには「いのち」がありました。
素晴らしいですよね。
しかし、私たちは思います。
「それは、使徒たちが生きていたころの話だ。しかも、ペンテコステの影響が色濃く残っていたころの話じゃないか。今は、そんなことは起こらない」
愛する兄弟姉妹。
私も、そのように考えてしまいそうになります。
「今とは時代が違う。今は、そんなに簡単な時代じゃない」と。
しかし、自分の心と正直に向き合うならば、それは「言い訳にすぎない」と認めざるを得ません。
先の雨は降りました。私たちは、後の雨の時代に生かされていると、私はそう信じます。
サルディスに現れてくださったイエス様の姿を思い出してください。
イエス様は「神の七つの御霊と七つの星を持つ方」です。
「神の七つの御霊」は「全地に遣わされた御霊」です。
「完全ないのち」である方が「全地に遣わされた」のです。
何のためにでしょう。
それは、全地の神の子どもたちが「いのち」にあふれる者として歩むためです。
イエス様は「いのち」を与えたいと望んでおられるのです。
聖霊様は、私が「明け渡す」ならば喜んで「満ちて」くださいます。
私たちに「いのち」が溢れないのは「御霊に明け渡さないから」です。
そして、私たちが明け渡さないのは「神に対する恐れ」に欠けているからです。
彼らは「すべて共有していた」と記されています。
それは「すべて自分の所有ではない」と考えたからです。つまり「すべて主のもの」だと彼らは心から思っていたということです。
彼らは「一つ」でした。御霊によって「一つ」とされていました。
そこには「神への恐れ」が満ちていました。
彼らはみな「恐れ」を抱いていました。
それはもちろん「神に対する畏敬」です。神に対する「聖なる恐れ」です。
「生けるまことの神」を中心に置くならば「恐れ」は必ず生じます。
主に対する「畏敬」「聖なる恐れ」がある教会には「多くのしるしと不思議」が現れると私は信じます。
主に対する「畏敬」「聖なる恐れ」は、私たちを「明け渡し」へと導くからです。
本当に「聖なる神」の御前に立つならば「自分の所有」を主張することなど誰にもできないでしょう。
「人中心」の教会では「神は愛です」と語ります。
それはもちろん「真理」ですし、神の愛は必ず語られるべきです。
しかし「愛の神」はまた「聖なる方」でもあることを私たちは語らなければなりません。
「神中心」の教会は「聖なる方」を高く掲げます。
礼拝は「人のため」に「行う」ものではありません。
それは「プログラム」を進行させるものではありません。
「礼拝」とは献げるものです。それは「自分を生きた献げもの」とすることです。何かを「行う」ことではありません。
さて、時間がないので、そろそろ終わりにしなければなりません。
最後に、これだけを言って終わりにしたいと思います。
愛する兄弟姉妹。
私たちが「聖なる神」の御前に「恐れ」を持って進み行き、自分自身を「生きた献げもの」とするならば、そこには「いのち」が必ず満ち溢れます。
私たちは何を置いても「生きた教会」となりましょう。
「実は、死んでいる」などという悲しい現実から脱出しましょう。
「生きた」とは「御霊のいのちがある」ということです。
そして「御霊によって一つ」とされた私たちを、イエス様は身に着けてくださいます。
これは「招き」です。
「七つの御霊」を持つ方は「七つの星」をも持たれます。
大祭司の胸当てには12の宝石がはめ込まれました。それは「イスラエルの12部族」を表しています。それは「イスラエルの子ら」を覚えるためです。
そのように「大祭司であるイエス様」は、私たちを「身に着けて」くださいます。
「いのちにあふれた聖徒」は、主イエスの宝石です。
私たちは「招かれて」います。
聖なる恐れをもって御霊に明け渡し、生きた者とされ、自分の所有を主張せず、御霊によって聖徒たちと一つとされるなら、あなたは「主の宝石」となります。
イエス様を飾る宝石とされるのです。主は、あなたを「身に着けたい」と望んでおられます。
ゆえに「神の七つの御霊と七つの星を持つ方」としてご自身を啓示されたのです。
まだ「目を覚ます」のに間に合います。まだ「起きる」時間はあります。
私たちは、目を覚まし起き上がりましょう。
そして「生きた教会」として、この世を騒がす者となりましょう。
祝福を祈ります。