マタイ17:20~21(新改訳第二版)
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
【ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。】
問題は「薄まった信仰」です
さて、弟子たちは不思議でたまらなかったようです。
イエス様は弟子たちに「悪霊を追い出す権威」を授けておられましたし、実際に弟子たちは何度も自分たちで悪霊を追い出したことがありました。
ですから、今回も自分たちだけで対処できると思っていたのです。
しかし、弟子たちにはできませんでした。彼らには、てんかんで苦しむ子どもを助けることができませんでした。
「なぜ」と言っていますから、本当に彼らには「意味がわからなかった」のでしょう。
今まで「できたこと」が今回はできなかったのは「なぜ」なのか、知りたいと思ったのです。
イエス様は言われました。
とても簡単なことです。理由は「あなたがたの信仰が薄いから」です。
以前の新改訳では、21節としてイエス様のお言葉の続きが記されていました。2017年版では「欄外注釈」に記されています。
これは、このような問題は「特別なこと」だから「祈りと断食が必要だ」と言われたのだと、私たちは解釈してしまいます。
けれど「特別なこと」とは一体何なのでしょう。
主なる神様にとって「特別な問題」などありません。イエス様は「お叱りになった」だけです。それは「いつものこと」のように思えます。
「祈れば」「断食すれば」すべての問題が解決するのではありません。「祈りと断食」は「薄まった信仰」を「純粋な信仰」にする効果があるのです。
弟子たちは「なぜ私たちにはできなかったのでしょう」と尋ねていますから、自分たちの信仰が「薄かったのだ」という事実には気がついていません。
つまり「信仰の薄さ」は、自分ではなかなか気がつけないものだということです。
私たちには「祈りと断食」が必要です。それは「ただ主にだけ目を向けるために」必要なのです。
私たちの信仰が「薄まる」のは、信仰の創始者であり完成者である方から目を離したせいです。ですから「純粋な信仰」となるためには、「主イエスだけ」を見つめることが必要なのです。
「祈りと断食」をしても「主イエスを見つめない」のなら意味はありません。
「祈り」を「不平不満を並べる時間」「解決の難しさを訴える時間」とするならば、いくら祈って断食しても「純粋な信仰」にはなれないでしょう。
「祈りと断食」は、自分や周囲から目を離し「イエス様だけ」を見るために行うものです。
そうして、私たちの信仰が「薄い信仰」ではなく「混ぜもののない純粋な信仰」となったなら、そのときには「どんなことでも」できます。
問題なのは常に「難しい出来事」ではなくて「薄まった信仰」なのです。悪霊を追い出したいならば、まず「私のうちにある不信仰」を追い出す必要があるのです。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離しません
主よ、わたしの信仰が薄まっているなら示してください
私は「世」から分離した者です