マタイ26:39
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。
私が望むようにではなく、あなたが望まれるように
私たちは「イエスは勝利を取られた、十字架の上で」と賛美します。確かに、イエス様の十字架は「勝利」です。私たちは、その流された血潮によって罪から救われました。
しかし、主イエスの勝利は、実質「十字架の前」に決まっていました。
「アダムはエデンの園で敗北し、キリストはゲッセマネの園で勝利した」と言われます。
聖書は「園」でもたらされた「敗北」と「勝利」の書です。
人は「エデンの園」で「得よう」として、すべてを失いました。
主イエスは「ゲッセマネの園」で「失った」ので、すべてを得られたのです。
「あなたが望まれるままになさってください」という願いは「わたしが望むようにではなく」と言う祈りなくしては成立しません。
つまり「みこころが成りますように」と私たちが祈る時には、その前に「私の望みではなく」という献げる心が必要だということです。
イエス様は「望み」を御父の御前に「放棄」されました。「捨てた」ということです。
それは「ご自分の望み」よりも「御父の望み」を選ぶという宣言です。御父への愛ゆえに「すべてを失うこと」を選ばれたのです。
主イエスを十字架に架けたのは、「ローマ兵」でした。しかし、主イエスは「ローマ兵」に「いのちを取られた」わけではありません。
主イエスは「わたしが自分からいのちを捨てるのだ」と言われたのです。だれも、イエス様から「いのちを奪う」ことはできません。「捨てた」ものを「奪う」ことなど、誰にもできないのです。
「ゲッセマネの園」において、イエス様の勝利はすでに確定していました。
私は、所謂「リバイバリスト」と呼ばれる「神のしもべ」たちの伝記を読むのが大好きです。
彼らを通して現わされた「主の偉大な御わざ」を読むと心が燃え上がります。
ハイド、ストット、ブレイナード、ムーディ、フィニーと、名前をあげるだけでワクワクしますね。
彼らの使命は様々です。しかし、彼らのだれもが「ゲッセマネ」と呼べる経験をしています。
「神のしもべの本当の勝利は、隠れた園での涙の祈りである」と言われます。
「神のしもべ」は誰しもが「完全な明け渡し」を経験するのです。彼らはみな「私の望みではなく、あなたの望まれるままに」と涙を流しひれ伏した経験を持つのです。
「リバイバル」は、神のしもべたちが人知れず流した涙の結実であると私は信じています。神のしもべが、主の御前に「全き明け渡し」をした「その日」、すでに「勝利」は確定していたのです。
主は、あなたの「いのち」を決して小さいものとは思われません。あなたの献げたものをしっかりと受け止めてくださいます。
「完全な明け渡し」を、主は求めておられます。
私たちは今、ひざまずき祈りましょう。
「主よ、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください」
勝利はすでに確定しています。
主よ、私を「神のしもべ」としてください
あなたの御思いで満たしてください
主の御心だけがなりますように