詩篇62:8
民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。神はわれらの避け所である。
主が引き寄せておられるのです
ハンナには「募る憂いと苛立ち」がありました。自分が「不妊」であることを嘆いていたのです。
「主がハンナの胎を閉じておられた」と記されています。つまり、ハンナには「どうすることもできない」のです。自分で「どうすることもできない」ことが「憂い」の原因であるとすれば「苛立ち」が募るのも無理はないと思えます。
募る「憂いと苛立ち」は、ハンナに「心の痛み」を与えました。そして、その「心の痛み」が、ハンナを祈りへと駆り立てたのです。
主がハンナを「心の痛み」を通して、ご自身に引き寄せられたのだと私は思います。
このハンナの請願は、主によって引き出されたものであると私は信じます。主は、私たちの「心の痛み」を通して「献身」を引き出すことがあると私は思うのです。
ハンナの「心の痛み」は、他の人には理解できませんでした。夫のエルカナも理解できませんでした。大祭司エリは、その声にならない祈りを「酒に酔っている」と誤解しました。
祈り終わったハンナの顔は「もはや、以前のようでは」ありませんでした。「心を注ぎだす祈り」は、人を変えるのです。
主は「預言者サムエル」を産み出すことを決めておられました。ハンナの「胎が閉じられていた」ことは、主のご計画のうちでした。「ハンナの痛み」から注ぎだされる祈りを、主は待っておられました。
ハンナの「心の痛み」から「最後の士師である預言者サムエル」は産み出されたのです。
あなたには「心の痛み」がありますか。
「募る憂い」と「苛立ち」で怒りが掻き立てられるようなことがありますか。
自分では「どうしようもない」ことで苦しい思いをすることがあるでしょうか。
あなたの抱える「心の痛み」は、主の招きであることを覚えてください。
主はあなたに「心を注ぎだして」欲しいと待っておられます。
おそらく、あなたの抱える「心の痛み」は個人的なもので「リバイバル」とは全く関係がないと思えることでしょう。
しかし、ハンナの「個人的な祈り」が「イスラエルの預言者」を産み出したように、あなたの「個人的な祈り」も「何か」をもしくは「誰か」を産み出すことにつながるのです。
ただ御前に「心を注ぎだして」祈ってください。誰も理解してくれなくても、主があなたの祈りを待っておられます。声にならない祈りであっても、主はすべてを理解してくださいます。
主は、あなたの「心を注ぎだす」祈りを待っておられます。
私は御前に心を注ぎだします
主よ、どうか引き寄せてください
あなたのご計画をすべて受け入れます