No.338 主を恐れる人は「本当の洞察力」を得ます

灯台

詩篇111:10
知恵の初め それは主を恐れること
これを行う人はみな賢明さを得る
主の誉れは永遠に立つ。

知恵の初めは「主を恐れる」こと

詩篇111:10
知恵の初め それは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。主の誉れは永遠に立つ。

「初め」と訳されている語は「すべての基礎、土台」という意味です。「主要な部分」と訳すこともできます。

つまり「主を恐れること」こそ「知恵の基礎、土台」であり「主要な部分」であるということです。

「主を恐れる」ことによって、私たちは「賢明さを得る」と記されています。

「賢明さ」と訳された語は「本質を見極める洞察力」というような意味を含んでいます。

「主を恐れる人」は、単に「賢明である」「推察力がある」という程度のことでなく「物事の本質を見極めること」ができるようになるのです。

それは「人の知恵」を超えたものです。「少し賢い」を超えた人生を歩みたいなら「主を恐れること」です。

世の中の「賢い人々」は、栄光の主の十字架を悟ることができませんでした。しかし、主を恐れる人は「神の救い、神の力」である十字架の意味を悟ることができます。

主を恐れる人は、物事の「本質」を悟ることができるようになるのです。

Ⅰコリント2:9
しかし、このことは「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。

世の中の「賢い人々」が何を言おうと気にする必要はありません。

見えているところだけで考えれば「確かにそうなる」ように思えるかもしれません。

しかし、主が備えてくださるものは「見たことも、聞いたことも、心に浮かんだこともないもの」なのです。

心に浮かんだことのないものを、誰が予測することができるでしょう。

「主を恐れること」です。

そうすれば「主が願うことと思うことを超えて働かれる方」であることが分かります。

「主を恐れること」です。

そうすれば「見えているものがすべてではない」ことが分かります。

「主を恐れること」です。

そうすれば、あなたが「知恵」だと思っていたものが、実際は「知恵ではなかった」ことを悟るでしょう。

イザヤ11:3
この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、

イエス様も、地上に生きておられたとき「主を恐れることを喜びとし」て歩まれました。

イエス様は「見るところ」「聞くところ」にしたがって歩まれませんでした。

イエス様は「見えるもの」「聞こえること」に惑わされるようなことはありませんでした。

それは「主を恐れる霊」である聖霊様とともに歩まれたからです。

イエス様は「主を恐れる霊」とともに歩まれたので「賢明さ以上のもの」を得ておられたのです。

「主を恐れること」を求めましょう。それが「すべての基礎」です。

イザヤ11:2
その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。

聖霊様は「主を恐れる、知識の霊」です。

私たちは、御霊のうちにあって初めて本当に「主を恐れること」ができるのです。

聖霊様、主を恐れることを教えてください
私は「小賢しい」「空しい」世の知恵を退けます
聖霊の満たしを切に求めます