Ⅱ歴代誌20:12
私たちの神よ。彼らをさばいてくださらないのですか。攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。
どうすればよいのか分かりませんと言いました
ユダの王ヨシャファテは「善王」です。しかし、少し気の弱い王様だったように思います。
「モアブ人とアンモン人の大軍」がユダの国に向かって攻め上ってきました。人々は、急いでヨシャファテ王に報告しました。
ヨシャファテは「恐れた」のです。
もちろん恐れて当然でしょう。ユダの軍事力では太刀打ちできないことは明白です。
私たちは「太刀打ちできないこと」に遭遇するとき恐れます。また、自分より「力の強い相手」「自分より優位な立場にいる人」を恐れます。
それは「その状況」「その人物」が、自分の人生をコントロールする力を持っていると思うからです。
確かに、私たちの人生の一部分を「その状況」「その人物」が破壊してしまうことは起こり得るのです。
自分の人生が「破壊される」「傷を受ける」と予期したとき、私たちは「恐れる」のです。
ヨシャファテは「恐れた」とき、もっとも良い選択をしました。
彼は、周囲の「強い国々」に頼ろうとはしませんでした。何とか「自分の力」で戦おうともしませんでした。
彼は、国中の人々に「断食」するように求めました。皆で、ただ主に拠り頼もうと決意したのです。
まず、ヨシャファテは「自分の無力」を認めました。
「攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません」と言いました。
そして、こう祈ったのです。
「私たちとしては、どうすればよいのか分かりません」
一国の王が、国民の面前で「どうすればよいのか分からない」と言ったのです。
これは、聖書に記されている祈りの中で、最も「情けない祈り」であるかもしれません。しかし、もっとも「力ある祈り」となり得るのです。
多くの人が「弱い」ことは「敗北」だと思っています。
確かに「弱さ」が「他の人」「他の物」「自分の策略」などに結び付いたとすれば、それは「敗北」でしょう。
しかし「弱さ」が「主なる神」に結び付くとき、それは「勝利」となるのです。
「ただ、あなたに目を注ぐのみです」とヨシャファテが言ったとき、彼の「弱さ」は「強さ」になりました。
「弱いときこそ強い」のです。それはただ「キリストのゆえに」です。
もし「恐れ」を覚えているならひざまずきなさい。
「立ち向かって来る敵」に怯えているならひざまずきなさい。
自分の力では「どうしようもない」ことで苦しんでいるならばひざまずくしかありません。
そして「主よ、私にはこの件に立ち向かう力はありません」と認めるのです。
「主よ、どうすればよいのか分かりません」と告白するのです。
私は、ただ「主に目を注いで」いればよいのです。堅く立って「主の救い」を見ましょう。
主よ、私には力はありません
主よ、どうすればよいのか分かりません
主よ、あなたの救いを見せてください