No.327 いのちを与えるのは御霊です

ティートン山脈

ヨハネ6:63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

足りないのは息です

エゼキエル37:7
私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。

「干からびた骨」にエゼキエルが「主のことば」を預言すると、骨と骨が互いにつながりました。

エゼキエル37:8
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。

エゼキエルが「主のことば」を宣言すると「干からびた骨」に変化が起こりました。

ただの「骨」ではなく「干からびた」骨に「筋が付き、肉が生じ、皮膚でおおわれ」立派な身体になりました。

これは奇跡ですね。「干からびた骨」は「主のことば」によって再び肉体となったのです。

しかし、それで終わりではありません。まだ「足りないもの」があったのです。

その肉体の中には「息はなかった」のです。

「干からびた骨」には「主のことば」が必要です。「主のことば」を宣言することによって、私の「干からびた幻」は、再び「動き出す」ことができるようになりました。

「主のことば」によって、私たちは再び元気をだして歩めるようになります。

しかし、それだけでは「足りない」のです。私たちの中に「息」がなければ、すぐに失速して、また動けなくなってしまうでしょう。

ヨハネ6:63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

「主のみことば」によって「干からびた骨」でなくなったならば、次は「聖霊の満たし」を求めるのです。

「いのちを与える御霊」がおられないなら、それは「肉」にすぎません。そして「肉は何の益も」もたらさないのです。

元気を取り戻したとしても少し待ちなさい。立派に外観が整っても満足してはなりません。「すべてがそろった足りない物はない」からと言って動き出してはいけません。

「その中に息が」なければ本当の意味で「生きる者」ではないからです。

エゼキエル37:9
そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」

「主のみことば」を宣言すると「干からびた骨」のようであった「望み」が再び形を帯びてきます。

そうすれば、次は「息に預言する」のです。

「いのちを与えるのは御霊」であることを覚えてください。

私たちには「望み」を実現する力はありません。「心に植え付けられた望み」は、責任を持って御霊が実現してくださいます。

「望み」が復活したならば「息」を求めます。聖霊様の満たしを切に求めます。

エゼキエル37:14
また、わたしがあなたがたのうちに霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語り、これを成し遂げたことを知る。ー主のことば。

「息」が入ると「生き返る」のです。そして、私たちは「すべて主の御業」であることを知るのです。

主が「成し遂げて」くださいます。私は、ただ御霊の満たしを切に求めるだけです。

聖霊の御力の偉大さを現わしてください
その圧倒的な御力を体験させてください
聖霊様の満たしを切に求めます