No.326 干からびた骨よ、主のことばを聞け

もう一度

エゼキエル37:4
主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。

干からびてしまったビジョンに宣言するのです

主は、エゼキエルに「干からびた骨」を見せられました。それは不気味な光景だったでしょう。エゼキエルは、幻の中で地面に崩れ落ちている多くの「干からびた骨」を見たのです。

エゼキエル37:2
主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがご存知です。」

「干からびた骨」が生き返ることは可能なのでしょうか。

多くの年月が経ち、希望は失われました。力尽き、崩れ落ち、もう立ち上がることができません。倒れたままでいるうちに、いのちが尽き、腐敗が進み、肉も皮も消えてなくなりました。そうして、残された骨すら干からびてしまったのです。

そのような状態の人に回復の見込みがあるのでしょうか。いえ、もはや、人と呼べる状態ではない「干からびた骨」が生き返ることなどできるのでしょうか。

エゼキエル37:4
主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。私はお前たちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、私が主であることを知る。』」

主は言われます。「おまえたちは生き返る」と。

主は「干からびた骨」に「おまえたち」と呼びかけられます。主は「干からびた骨」に対して、生きている者のように語られます。

主は、「いのちの欠片」も見出せない地に「いのち」を見ておられます。カラカラに乾燥した不気味な風景の中に「生き生きとした非常に大きな集団」を見ておられるのです。

エゼキエルが、主のことばを宣言すると「干からびた骨」が音を立てて互いにつながりました。

エゼキエルが、主のことばを預言すると「つながった骨」に筋がつき、その上に肉が生じ、そして皮膚でおおわれました。「主のことば」によって、それは「干からびた骨」ではなくなったのです。

「もうだめだ。もう遅すぎる。干からびてしまった。昔とは違う」と私は思います。

肉づけされ、整えられた姿であった「私のビジョン」は、今や見る影もありません。それは崩れ落ちて「干からびて」います。

その「干からびた骨」を見たとき、私は思うのです。「失敗してしまったな。もう二度とやり直せない」と。

そして、こうも思います。「もう見たくない。それは醜い残骸だ」と。

しかし、私は目を背けずにしっかり見なければなりません。しっかり見れば、発見します。

「干からびて」はいても、それらの「骨」がまだ存在しているのだということを。

「主のことば」を聞きなさい。主の「みことば」を「干からびた

「もうだめだ」というのは、ただの感情です。それが不可能に見えても、主が「語れ」と言われるならば宣言しなければなりません。

失われたものは「回復」します。諦めてしまって「干からびた骨」のようなビジョンが、再び、イキイキと動き出します。見るも無残に散ってしまった計画も、再び、力強く動き出します。

そして、再び、動き始めるとき、それは「私のビジョン」ではなくなっているでしょう。

再び、動き出した時、私たちは知るのです。

「そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る」

倒れて「干からびた」のは、再び動き出した時、私たちが「神こそ主である」ということを知るためです。

干からびた骨よ、主のことばを聞け
横たわっている夢よ、主のことばを聞け
私は、私の上に「主のみこころ」を解放します