【マタイ18:28】
ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。
主君は彼を赦し借金を免除してくれました
この家来は、自分の借金を免除してもらいました。とても優しいあわれみ深い主君です。
しかし、この家来は、自分に対して百デナリの借金を負っている人を免除してあげることができなかったのです。
「赦す」ということに関して、イエス様はこの「たとえ話」をされました。
「あなたは、神に1万タラントの借金を免除してもらったのだから、他の人の100デナリの借金を赦してやりなさい」と言われるのです。
私たちは、この「たとえ話」を頭では理解できます。しかし、心まで納得させるのはなかなか難しいものです。
この家来は、なぜ100デナリの借金を赦してやれなかったのでしょう。
それは単純なことなのです。この家来は「100デナリ」を見たからです。
赦してもらった「1万タラント」ではなく、目の前の「100デナリ」を見たからです。
「1万タラント」は、「1タラント」が「6000デナリ」に相当するとして計算してみてください。
「1万タラント」に比べたら「100デナリ」なんて小さなものだと思います。
けれど、目の前に「100デナリ」をぶらさげられたら諦めきれるでしょうか?
100日分の労賃と思えば大金です。もともと自分の物なのです。取り立てる権利はあるでしょう?
「コーリー・テン・ブーム」は、ユダヤ人を助けた罪でドイツに捕らえられました。その収容所での経験が書かれた本があります。
ある日、収容所で強制労働をさせられていた時、愛する姉の「ベッツィー」が看守の一人に鞭で打たれたのです。自分の最も愛する人が傷つけられたのです。コーリーの心は怒りで満ちました。
看守は、蔑んだ目付きで、ベッツィーのシャベルを私たちの方に投げました。それを拾い上げた私は、まだ呆然としていました。ベッツィーのえりもとには赤いシミが付いています。首のあたりのみみずばれは、みるみるはれ上がっていきます。ベツッイーは、私の視線がどこに向けられているのかを知ると、やせ細った手で、鞭のあとを隠しました。「コーリー、ここを見てはいけないわ。イエス様だけを見てちょうだい。」
わたしの隠れ場 コーリー・テン・ブーム著 いのちのことば社p312
「傷」を見続ける限り、赦すことはできません。一生懸命に赦そうとしても「傷」を見つめている限りは無理なのです。
「イエス様は、私のすべての罪を赦してくださった。私は、あの人の『一つの罪ぐらい』赦さなければならない」と私たちは思います。そうです。私たちは赦したいのです。けれど、できないのです。
たった「一つの罪」であったとしても「傷」つけられれば「痛み」ます。「痛み」は時が過ぎれば感じなくなりますが「傷」は残ります。そして、その「傷」を見るたびに「痛み」がよみがえるのです。
「ここを見てはいけないわ。イエス様だけを見てちょうだい。」
この言葉にすべての答えがあります。
「傷」から目を離すのです。「100デナリ」を見てはいけません。
イエス様を見るのです。
「簡単に言うな。私の傷を知らないくせに」そう言いたい気持ちはわかります。
けれど、それでも、私は信じています。
イエス様の「十字架の御業に解決できないものは何もない」と。
どうか、自分の「傷」を見つめ続けないでください。
イエス様は、あなたの「傷」をご存じです。なぜなら、イエス様は、あなたのために「傷」を受けられたのですから。
その手に傷を負われたのは、あなたのためです。わき腹を突き刺されたのは、あなたのためです。
誰にもわからない「痛み」を心底わかってくださる唯一の方です。
イエス様を見るのです。
ただイエス様だけを見るのです。
そこに必ず解決があります。
イエス様、あなたを見ます。
あなたの十字架で解決できないことは何もありません。